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インテリは回っているけど前進しない ~寺山修司の名言集(コラム・評論)

寺山修司のコラムや評論より、お気に入りに言葉を紹介しています。

本記事の内容
  • 現代人に欠けているのは「話し合い」より「黙りあい」 ~『東京零年』より
  • よくわかることは 実は 自分を失くすること 『寺山修司からの手紙』より
  • インテリは回っているけど、前進しない
  • 美というものは、本来、何かを欠いたものです 『家出のすすめ』
  • 革命を遠くから見ているだけでは何も変わらない 『千一夜物語・新宿版』
  • 現代人に欠けているのは「話し合い」より「黙りあい」 ~『東京零年』より
    私は、現代人が失いかけているのは「話しあい」などではなくて、むしろ「黙りあい」だと思っている。

    東京零年

    インターネットの普及で、誰もが手軽に発信できるようになった今、この言葉が書かれた昭和の時代に比べたら、「話したい(=書きたい、表現したい、認められたい、etc)」という衝動はいっそう強まったように見える。

    猫も杓子も、言わなきゃ、ソンソン、

    もはや「黙っている」ということに耐えられないほど、現代人はすぐに書き、いいねやリツイートをクリックし、他人の反応や意見を気にする。

    絶え間ない情報の洪水……というよりは、沈黙に対する耐性の低下。

    その『沈黙』も、中世の修道僧のような『瞑想の為の孤独』と異なり、『周囲の無反応や退屈』といった意味合いが強く、沈黙に耐えられないというよりは、何ものでもない自分と向き合うのが苦痛で、常に何かしら周りの反応が得られなければ孤立感や空疎感が深まるという感じ。それは自ら望む孤独と違って、ほとんど強迫観念に近い。

    一つ何かを得れば、いっそう確かな手応えを求めて、もっと、もっと、と突き進む。

    しかし、喋ってる間、人は深く考えないように、書いたり、覗いている間も、深く考えないものだ。

    次から次にアウトプットするのは、創造的に見えて、その実、排泄に過ぎなかったりする。

    なぜ人には沈黙が必要なのか。

    私たちは、しばし周囲との関係性を絶つ中で、気付いたり、変えたり、深めたりするものだからである。

    情報収集や分析も、同じ環境に身を置いていては手に入るものも限られるし、雑音の中では考えも偏る。

    本当に創造や変化を求めるなら、私達はいっそう沈黙を重んじ、一人で思索することの意義を見直すべきではないだろうか。

    置いて行かれたところで、焦ることもない。

    本物の伴走者は、あなたが急ごうが、滞ろうが、あなたのペースに合わせて、生涯付き添ってくれるものだから。

    友人しかり、芸術しかり。

  • よくわかることは 実は 自分を失くすること 『寺山修司からの手紙』より
    谷川俊太郎が僕のことを「あまり文学を高貴に考えすぎているんじゃないかな。純粋で勤勉すぎるのは実作者として損じゃないかな」といっていた。
    谷川俊太郎は決して読書しない。古典は敬遠し冒険小説ばかりよむ。
    彼は恋愛しても決して嫉妬しない。所有しないで享楽するのが彼の信条だ。こうした生き方を僕は軽蔑しはしないが、僕のものではないと思う。ただ、本をよみすぎると書けなくなるというのは本当だと思う。
    よくわかることは実は自分を失くすることなんじゃないだろうか。
    ふと湧いた感想。

    どこの世界でも知ることは美徳だし、勉学も最高位に位置づけられる。
    そして、それは非常に正しいけれども、観念の世界から遠ざかっていくのもまた事実。
    学者や識者ならともかく、作家さんは、常に世界や自身に疑問をもたないと生きていけない。
    何か書こうとする時、そこに厳然たる事実があっては困るのだ。
    たとえば、空は青いし、雲は白い、といったこと。
    文学の始まりは、空や雲の本質を夢想することだから、空とは何か、雲とは何かということが、あまりに明快だと、想像力の入り込む余地がなくなって、文章を書いていても、いつしか学者の世界になってしまう。そして、誰が作家に学術的正しさを期待するだろうか?

    時に「わからない」ことの方が、心に多くをもたらす。
    もう一度、月の絵を描けと言われても、あれが地球の衛星であり、土の塊と知ってしまえば、二度とウサギは現れないのと同じで、どんな物事に対しても、常に探訪者たらんとするなら、わたしたちは、どこか無知なところを残しておかないと、人生に対する動機や想像力を失ってしまう。人の倍ほど読んで、物知りになり得たとしても、魂が幸福を感じることと、人生に失敗しないことは、また別だ。そのいい例が、子どもである。彼らは無知ゆえに元気で、よく笑う。世の中のことを知れば知るほど、無邪気な笑いも失われていくけれど。

    それよりも、自分の感じるまま、心の命じるままに、耳を傾けてみたい。
    誰かの作り上げた理論や周知の事実ではなく。

    月に不思議な魔力を感じる心よりも、月とは何かという知識がまさる時、わたしたちは世界に近づく反面、自分自身という、もっとも大事な基軸から遠ざかるのではないだろうか。

     寺山修司からの手紙 (単行本)
     著者  寺山 修司 (著), 山田 太一 (編集)
     定価  ¥1,870
     中古 26点 & 新品  ¥1,343 から
  • インテリは回っているけど、前進しない
    「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない」

    あゝ、荒野 (角川文庫)

    これに関連する言葉。

    風車は進歩的文化人

    ケサダが、自らを騎士ドン・キホーテと命名し、百姓のサンチョを従者として、風車と戦う有名なエピソードは、いったい何を物語っているのだろうか?

    <中略>

    風が出て来て、風車はまわり出し、突き出したドン・キホーテの槍は折れ、ドン・キホーテの体はロシナンテもろとも、風車のはねにひっかけられて空中に舞いあげられ、地面に投げ出されて、足をくじいてしまうのである。ここで、しぶとい風車は何の喩えであるのか?

    それは、たとえば進歩的文化人を連想させることができる。
    「まわっているが前進しない」からである。
    ふつう、私たちは輪が回転するとき、その分だけ距離を獲得し、前進すると思っているのだが、風車はまわってもまわっても前進せず、他からの攻撃に対してはかたくなに身を守ろうとする。

    風車には自転はあるが公転はない。だが、それではドン・キホーテは風車の中に、正すべき不正、新たむべき非理、果たさねばならぬ負債のいずれかを見出したのだろうか?

    さかさま世界史 英雄伝 (角川文庫)

    回っているのに前進しない、とはどういう意味だろうか。

    たとえば、オピニオンリーダーと呼ばれる人はたくさんいる。どれもが先鋭的で、ユニークな意見の持ち主だ。

    しかし、5年、10年と、同じ主張を繰り返している人も少なくない。

    通常、人間が成長すれば、考え方も感じ方も変わるものだ。

    右が左になったり、左が右になったり、強固な独身主義だったのが、結婚もいいかも……と考え始めたり、熱心な幼児教育推進者だが、いつの頃からか、自然に育つ面白さに気付いたり、起業やフリーランスに憧れていたのが、組織の一員として活躍することにも意義を見出したり。

    新しいことにチャレンジしたり、新しい知識を得たり、新しい出会いがあれば、その都度、己を省み、変化するのが『前進』だろう。

    ところが、己の主義に拘ったり、排他的であったり、硬直した部分があると、まったく前に進まない。

    それどころか、ますます批判に敏感になり、自分と異なるものを攻撃するようになる。

    既に、○○主義で売り出してしまっているが為に、引っ込みがつかない人も少なくないだろう。

    そうなると、社会の為の思想ではなく、己が存続する為の思想となる。

    己のポジションの為に主張するのは、もはや押しつけであり、思考停止だ。

    繰り返されるだけで、ちっとも前に進まない思想に、どんな気づきや発展があるというのだろう。

    思想界においては、インテリが悪いのではなく、自己保身こそが最大の弊害と思う。

    語り口調はブンブンと活きがいいが、五年たっても、十年たっても、同じ主張の繰り返しで、広がりも、奥行きも感じさせないのは、天翔る飛行機ではなく、『扇風機』である。

  • 美というものは、本来、何かを欠いたものです 『家出のすすめ』
    美というものは、本来、何かを欠いたものです。完全な合理主義からは、美はおろかドラマも生まれてきません。

    家出のすすめ (角川文庫)

    『完全な合理主義』というのは、『世間の定型』に置き換えても分かりやすい。

    多くの場合、『美』は様々な形で定義され、理想として植え付けられる。

    そこからはみ出したり、質の異なるものは、美とみなされず、多くの人は「世間でいわれるところの美」を目指すものだ。

    だが、果たして、完璧なもの、好ましいものだけが美であろうか。

    影を伴うもの、どこか欠けたもの、気味の悪いもの、アンバランスなもの、人を不安な気持ちにさせるものにも美は存在するのではないか。

    見た目が完璧なものや好ましいものは、確かに美麗な印象を与えるが、真の美しさは、見る者の想像力によって生み出されるのではないだろうか。

  • 革命を遠くから見ているだけでは何も変わらない 『千一夜物語・新宿版』
    「目玉なんて何もなりゃしない。革命を遠くから、見ているだけだ。大切なのは心臓だけだ」

    『千一夜物語・新宿版』

    私達は様々な情報を見聞きし、それらに対して意見を述べたり、共感したりするが、実行が伴わなければ効力も薄い。

    ただ論じているだけでは無力で、縦のものを横にする勇気と行動力がなければ、どんな立派な論説も空回りに終わってしまう。

    革命を遠くから見ているだけでは、何も変わらないし、何も身に付かない。

    革命は、その中に身を投じて初めて、自身の歴史となり、人と世界を動かすものである。

    ちなみに、寺山修司のいう『革命』とは、社会的アクションだけでなく、個人の人生も指す。

    物事に行き詰まったら、自分自身に革命を起こすことが一番だからだ。

    仕事を変えたり、コンテストにチャレンジしたり、大きな革命はもちろんのこと、いつもの停車駅をわざと乗り過ごして、見知らぬ町で降りてみるのも革命のうちである。

    いつも赤系統の服ばかり着ている人は、たまには青系統を試してみるのもいいし、いつも定食屋で食事を済ませている人は、プロのレシピを片手に本格中華を作ってみるのもよい。

    日常レベルで実践できる『革命』は数知れず、達成する人としない人の違いは「やるか、やらないか」の差なのである。

    そんな革命の原動力となるものは、立派な理想や成功哲学ではなく、どれだけ心が欲しているかだ。

    薄っぺらい憧れや見栄だけでは、人は何も成せない。

    こうしたい、こうなりたい、これだけは譲れない、

    なりふり構わぬ強い動機こそが、真に人を強くする。

    そうした力の湧き出る泉は、理屈ではなく、心臓だ。

    どれほど理屈をこねくり回しても、ガソリンの無いエンジンに火を付けることはできない。

    そしてまた、この心臓というものは、意識して鍛えないと、すぐに弱ってしまう。

    弱った心臓は、感じることも、奮い立つこともなく、いずれ人間を空疎な肉の塊にするだろう。

    社会改革にしろ、個人のチャレンジにしろ、遠くから見ているだけなら、何とでも言える。

    言葉だけなら、誰でも偉人であり、冒険者だ。

    だが、革命を遠くから見ているだけでは、何も変わらない。

    目だけ、弁だけでは、人は動かないし、世の中も変わらないのである。

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