それでも蛍は光を灯し続ける ~寺山修司の名言集(コラム・評論)

寺山修司のコラムや評論より、お気に入りに言葉を紹介しています。

本記事の内容
  • 全人的な意味での革命とは、本当に自分が望んでいることが何かを知ること
  • 美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくか 『幸福論』
  • それでも、蛍は光を灯しつづける ~『さかさま博物館』
  • 人は「時を見る」ことなどできない 寺山修司『仮面画報』
  • 寺山修司の『あしたはどっちだ』 明日とは一番無縁な人の明日論
  • 全人的な意味での革命とは、本当に自分が望んでいることが何かを知ること
    政治的な革命というのは部分的な革命にすぎない。全人的な意味での革命とは、本当に自分が望んでいることがなにかを知ることから始めなければならない。

    - 言葉が眠るとき、かの世界がめざめる -
    両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)

    政治でも、企業でも、「変わろう、変わらなきゃ」という掛け声はよく聞かれるが、突き詰めれば、『どうなりたいか』という問いかけは、あまりなされなていないような気がする。

    とりあえず、こういう業界だから、世界のトレンドはこうだから、これが強みだから、誰某がいいと言っているから、etc。

    目先の目標だけを追いかけて、今やれること、実現できそうなこと、可能性が高いこと、等から答えを選ぼうとする。

    だが、肝心な「どうなりたいのか」という根源が明確でないので、結局は迷走する。

    「どうなりたいか」は理想であって、現実的ではないという意見もあるが、そもそも「どうなりたいか」という理想を欠いて、どんな優れた現実を作り出せるというのだろう。

    「自分の望みがわからない」というのは、突き詰めれば、高次な展望を欠いている、ということだ。

    革命に成功するか否かは、方法ではなく、何を目的にするかに依る。

    「変わろう、変わらなきゃ」という掛け声が空回りするのは、失策というより、理想の欠如。

    自身のことも、どうあるべきかも、分かってない。

  • 美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくか 『幸福論』
    「白雪姫」のおかあさんが、鏡を見ながら「この世で一番きれいな人は誰ですか」と訊ねるような美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくかは、七人のこびとでなくとも知っている」

    幸福論 (角川文庫)

    『この世で一番きれいな人は誰ですか』という問いかけは、美意識ではなく、自己顕示であり、支配欲である。

    美に対する理解から美しいものを求めるのではなく、グラビアの美女みたいに「誰よりも美しければ、権力を得られる」という野心が源にある。

    他を負かしたい、認められたいという欲望から美を求める気持ちが己も周りも滅ぼすのは言わずもがな。

    それは美に限らず、善、知、友、技、すべてにおいて言えることである。

    *

    『幸福論』の「肉体」という章に掲載されている全文

    冗談(3)

    私の口ぐせは、運のわるい女はきらいだ、ということである。なぜなら運の悪い女は、たいてい美しくないからである。ジョルジュ・バタイユはその「無神学大全」の中でえ、「美は幸運によってみがかれる」と書いている。それは運の祝福――そして暴力的なまでの和合への衝動によって美を獲得するということなのだが、美しくありたいと願う女ほど幸運にあこがれている。
    そして、運命というのは神の名をかりた掠奪行為であるから、同時に人の不運をあてにするようになっていく。
    幸運への欲望をいだくものは、幸福とは遠いところにおかれる。
    なぜなら「幸福論」は、究極的には運命の支配の超克であって、汎神論よりは科学でなければならないからである。
    「白雪姫」のおかあさんが、鏡を見ながら「この世で一番きれいな人は誰ですか?」と訊ねるような美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくかは、七人の小人でなくとも知っている。

    *

    しかし、それにもかかわらず、現実の中では私たちは「知る」ことにあこがれて、賭けようとする。運命の支配は、見えない「時」の翼をひろげていて、わたしたちの「幸福論」がアドリブ的に、現実に即していこうとすれば、「幸運」や美の力を借りずにはいられないということもまた真実なのである。ダイアローグとモノローグのあいだを断ち切ってしまっては、肉体からの「幸福論」を説き起こしてゆくことは難しいであろう。

    『肉体』の章の冒頭に「幸福と肉体との関係について考えることは、きわめて重要なことである。なぜなら、一冊の「幸福論」を読むときでさえ、問題になるのは、読者の肉体のコンディションということだからである」とあるように、ここでは、肉体が精神に及ぼす影響について、走れメロスや、若尾文子や、マリリン・モンローを引き合いに出して綴られている。人間、見かけじゃない、といっても、肉体の有り様(美か醜か、健康か不健康か、痩せ型か肥満か、等々)が精神の持ち方に多大な影響を与えるのは明白だからだ。

    その中で『美』に関しては、運に左右される部分が大きい。こればかりは持って生まれた顔形で、本人には選択することも、修正することもできないからだ。

    ところで、美を求める人は、何をもって自身の美を認識するかといえば、「不美人」という比較対象だ。「不美人」という存在があるから、「美人」も引き立つ。
    白雪姫のおかあさんが求める「世界で一番の美」は、比較対象の上に成り立つ美であり、自身の心の中で愉しむ美とは異なる。
    ゆえに、『この世で一番きれいな人は誰ですか』という問いかけは、絶え間ない競争や劣等感をもたらし、決して本人を幸せにしないのだ。
    見かけの美しさが運なら、自身の心の中に美を見出すのは知恵だから。

    ※ この一文は両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)にも収録されています。

  • それでも、蛍は光を灯しつづける ~『さかさま博物館』
    蛍の光で書物を読むのは、蛍ではなく人間である。

    蛍は自分の光で、自分を照らすことなどできないし、その光で自らの道を照らすこともできないであろう。

    それでも、蛍は光を灯しつづける。

    さかさま博物誌 青蛾館 さかさまシリーズ (角川文庫)

    これは自身のことだろう、とつくづく。

    世の中には、「役に立つ言葉」や「救いの言葉」があふれている。

    でも、それを書いている本人には何の救いもなく、恵みもない。

    ただ、ひたすら書き綴る。

    本当にそれだけ。

    それは文学に限らず、音楽でも、サービス業でも、製造業でも同様。

    好きでやってるんじゃないか……という人もあるだろうが、自分も受け手と同じように喜んでやってる人など少数だろう。

    以前、有名漫才師だったか、落語家だったか、「喋ってる本人は全然面白くない。なんでこんなにウケるのか、いつも不思議に思いながらやってる」というコメントをされたことがあるが、それはその通りだろう。自分が楽しむのと他人を楽しませるのはまた別だし、趣味の域を通り越せば、ひたすら芸の奉仕者になるのが本当だと思う。

    それでも蛍のように光を灯し続ける。

    そういう性に生まれついた人を才物と呼び、続けられることを天職というのだろう。

    そこに野心も使命感もなく、最後は無色透明なエンティティみたいに無限に何かを作り出せるのが理想ではないだろうか。

  • 人は「時を見る」ことなどできない 寺山修司『仮面画報』
    人は「時を見る」ことなどできない。見ることができるのは、「時計」なのである。

    寺山修司の仮面画報

    人は「それ」をどのように認識するのだろう?

    たとえば、「愛」なら、ダイヤモンドやケリーバッグで感じるかもしれないし。

    情熱的な恋文でそれを実感する人もあるかもしれない。

    「名誉」なら、周囲の賞賛と媚びへつらい。

    「友情」なら、入院中に見舞ってくれる友達。

    それが誤解であれ、期待外れであれ、私達は、物質、肩書き、行為、言葉といった、形あるものを通して、形なき概念を「事実」として認識する。

    いわば、認識とは99パーセントの真実と1パーセントの想像力であり、その1パーセントの受け止め方によって、単なる古時計も、『思い出の時計』になったり、『無価値なガラクタ』になったりするわけだ。

    彼氏がプレゼントしてくれた時計を、「こんな安物、愛が足りないわ!」と怒り出す人もあるだろう。

    この世に『同じ認識』は二つと無く、一本の薔薇も、見る人によって美しさは異なる。

    薔薇、それ自体が美しいか否かより、受け取り側の感性によるところも大きい。

    言い換えれば、事象は事象であって、それ自体は何の意味もなさない。

    受け手の想像力によって、はじめて意味のある何かになる。

    認識とは、知恵の入り口であり、理解の第一歩だ。

    私たちが、私たち自身によって、唯一コントロールできるのは、薔薇の香りではなく、己の認識である。

  • 寺山修司の『あしたはどっちだ』 明日とは一番無縁な人の明日論

    少年漫画の金字塔『あしたのジョー』(原作・梶原一騎、作画・ちばてつや)のアニメのOPの有名なフレーズ、

    あしたは きっと 何がある

    あしたは どっちだ

    寺山修司の作詞なんですね。

    2017年には「あしたは、どっちだ」というドキュメンタリー映画が作られたり、寺山修司の代名詞みたいなフレーズだと思います。

    しかし、寺山修司ほど「あした」という言葉が似合わない人もない、と思うのですよ。

    山田太一との往復書簡、『寺山修司からの手紙』にもあるように、大学時代に難病の一つであるネフローゼ腎症を患って、若い頃から死を意識した人生でした。

    暢気な性格ならともかく、人一倍、生きることに真摯であった人が、いつまで続くか分からない『明日』――まだ始まってもない『あした』なんてものに人生を懸けたり、夢を見るとは到底思えないですからね。

    普通の人は、昨日よりも今日、今日よりは明日――ですが、寺山修司の場合、「今、この瞬間」、「今日」こそが人生そのもの。

    過ぎ去った日々にはもはや人生など存在しないし、明日なんてものに夢を見るほど悠長でもない。

    寺山修司にとっては、今日こそ全て。

    今、この瞬間こそが”人生”で、過ぎ去ったものにも、まだ訪れぬ明日にも、何の興味もない。

    ただただ、今日という日を時速100キロで生きるのみ。

    壮健で、夢追い人でもあるジョーの人生においては「あした」を謳うけれども、自分の人生に明日なんて日はない、と。

    今、この瞬間だけを見つめて、全力で生きたような気がします。

    関連記事 → 灰も残らぬほど創作に燃えて ちばてつやと『あしたのジョー』感動のラスト秘話

    人間、死を意識すれば、休むことも、立ち止まることもできなくなる。

    当然、明日に人生を託すことも。

    そんな人が「あした」を謳ったのは、決して若者を励ます為ではない。

    まして、夢が叶うと説く為でもない。

    大願成就して、人生を謳歌するか。

    夢破れて、負け犬となるか。

    野心と力に満ちあふれながらも、次の瞬間には自信をなくして、人生に絶望してしまう、若者の不安定さや思うにならない現実を歌った詞なんだろうなと思います。

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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