映画『薔薇の名前』を読み解く
世の中には、「観よう」「観たい」と思いながらも、「観るきっかけがない」「観る時間がない」「観る気力がない」等々の理由で、いつまで経っても鑑賞し終わらない作品というのがあります。
私にとってはショーン・コネリーの傑作『薔薇の名前』がそうでした。
コアなファンの間では評判も高く、これを観ずしてショーンの魅力は語れない! という傑作でありながら、見始めると、必ずといっていいほど、途中で寝てしまう。
この致命的な欠点ゆえに、かれこれ20年以上も逡巡していた作品ですが、先日、やっと見終わりました。
一言。
『面白かった』
クリスチャン・スレーターの初な○○も見る事ができた。
こんな所で油を売っていたとは夢にも思いませんでした。
クリスチャンもこんなに可愛い頃があったのね。
最後のテロップを見るまで気付かなかったほど・・ああ……。
【あらすじ】 ショーン・コネリーが挑む修道院の連続不審死
さて、本題です。
何の先入観もなく見始めたら、ダークで辛気くさい修道僧の説教物語と早々に見切りをつけて、途中で寝てしまうかもしれません。
私も、画面のあまりの暗さに眠気を催し、いつも本格的に話が進む三歩ぐらい手前で入眠してました。
言い換えれば、それぐらいリアルに中世の修道院の世界が再現されている、ということです。
静かで、無駄な装飾もいっさいなくて、うっかり咳払いしようものなら周りの上客に一斉に睨まれる、ウィーン・フィルハーモニー交響楽団のコンサートみたいな粛々とした雰囲気です。
しかし、最初の一山を超えると、この作品が堅苦しい宗教談義ではなく、「ゴシック・ロマン・ホラー・サスペンス」ということが分かってきます。
いきなり、ハラワタ祭り。しかも、禁欲の象徴である修道院で勃○ですと?!
そう、この作品は、不可解な修道僧の死をめぐる推理劇なんですね。
謎を解くのは、私の最愛のおじさま、 Mr.ショーン・コネリー。
衣装から、台詞回しから、何から何まで世界観に合致して、立っているだけで絵になります。
中世に迷い込んだような瑞々しいチェリーボーイのアドソ(クリスチャン・スレーター)と共に謎を解いていく。
とにかく全てが理屈抜きで素敵なショーン・コネリー。こんなコスチュームが似合うのも、世界広しといえど、ショーン様だけ♥
そんな彼らの前にたちはだかる謎のキャラクターたち。捜査に協力しながらも、何かしら、暗黙の了解があるような気がしてならない。。
そして、再び殺人が起きる。
この作品の素晴らしい点は、とにかく小物一つに至るまで、中世の世界が忠実に再現されている点。
修道僧たちが学ぶ図書室。
殺人事件の重要な鍵となる『写本』。
これもすべて手作りだそうです。
美術担当さん、乙です。
では、なぜ、これらの『写本』が彼らの修道院において重要なアイテムとなったのか。
ネットもテレビも印刷物も無い時代、知識を伝えるツールといえば「写本」でした。
手練れの僧や専門家が、原本を一言一句、細部の装飾に至るまで丁寧に写し取り、それを皆で共有していました。
その労力たるや、想像を絶するものがあります。(私は般若心経ですら疲れた・・)
また、写本は、必ずしも真実や価値あるものを伝えていたわけではありません。
中には「科学」という、キリスト教と真っ向から対峙する知識もあります。
時の権力者に都合の良い情報もあれば、世の倣いに逆らうような哲学もあったでしょう。
それらを密かに写し取り、回し読みしながら、当時の人々は知恵を磨き、思考を深め、知的好奇心を満たしていたと推察します。
神を嗤うなかれ : なぜ「笑い」はタブーとなったのか?
そんな中世において絶対タブーとされたものがありました。
それは『笑い』です。
修道院には「沈黙の掟」があり、むやみに笑ってはならない。
笑いは神を侮辱し、信仰を破壊するものと禁じられてきました。
そして、この修道院にも笑いは堕落に繋がるという厳しい掟があります。
本来、幸福の象徴ともいうべき「笑い」が、なぜ禁忌なのか。
ここでいう「笑い」とは、微笑=幸福、優しさ、悦びではなく、嘲笑=軽侮、驕慢、おちょくり、と考えると分かりやすいです。
たとえば、学級崩壊。
教師がどれほど熱心に「級友を思いやろう」「掃除など嫌なことも進んでやろう」「こつこつ学ぼう」と説いても、子供が「だっさ~」「古いんだよ」「三流大卒のくせにバカじゃね」と茶化せば、全然教えになりません。
キリスト教もそれと同じ。
真摯な教えを笑いで流したり、高僧をおちょくったり、神そのものをジョークにして笑い飛ばせば、信仰心など育つはずがありません。
どんな尊い教えも、人々が嘲り、耳を貸さなければ、まったく意味を成さないのです。
「笑い」を禁じた背景には、徹底した管理、一党支配など、様々な思惑があったと思います。
権威あるものや聖なるものを嘲り、貶め、軽んじる性向は誰の中にもありますが、それが集団と化せば、社会を統治することも不可能になり、権力者にとって非常に都合が悪い。
また権力者でなくても、心から聖なる教えを実践し、世の中を良くしようとする真面目な指導者にとっても、嘲りは障壁のようなものでしょう。
一方、どこまでがユーモアで、どこからが愚弄なのか、その線引きも難しい。
最近では宗教の風刺画を描いた出版関係者がテロリストに襲撃される事件がありましたが、あれもユーモアと愚弄の区別がつかないほど際どいものだったし、はっきり線引きできないなら、最初から「全てを禁忌とする」という方策が取られても不思議はないでしょう。
現代のような「自由」の観念が存在しない中世のキリスト教界において、死の刑罰を用いてでも「笑い」を禁じたのは、人々の信仰心や忠誠心を強固に繋ぎ止める為だったかもしれません。
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そう考えると、ハリウッド映画でも堂々と役者がイエスや聖家族を演じられるようになった現代は(ベン・ハーの時代にはイエス・キリスト<役者>の顔出しは禁忌だった)何事も自由といえば自由だし、何人の権利も認められる高度な社会に違いありません。
が、その反面、味噌もクソも一緒というか、尊ぶべきものまで笑いの対象にされ、誰も信じないし、真面目に考えようともしない。「神なき時代」でもあります。
神とはすなわち、真理であり、導き手であり、人として生きる道です。
自由は人間に平等や幸福をもたらす重要な要素には違いないけれど、多様な価値観を有し、生き方の選択肢が増えれば増えるほど、人間の悩みや迷いも複雑になっていく。
それを「知恵の実(=リンゴ)」として口にすることを禁じ、神の掟に反して自らに取り込んだアダムとイブが楽園を追放され、そこから人類の苦悩が始まった=原罪、と考えた昔の人々は、私たちが想像する以上に、人間の脆さや欲深さを恐れていたのかもしれません。
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映画『薔薇の名前』で描かれる中世は、修道院も、貧者の住まいも、おどろおどろしく、みなが恐怖政治に怯え、火刑という野蛮な見せしめも神の名の下に堂々と行われるような暗黒の時代です。
それだけに、掟を破ってでも「真実を知りたい」「物事の本質を理解したい」という知的な欲求もひとしおだったでしょう。
地下の奥深くに秘められた蔵書の数々にショーン様が目を輝かせる気持ちはよく分かるし、命よりも蔵書、火事の中にも飛び込んで本を守ろうとする行動にも納得です。
最後はジェームズ・ボンドの如く危機を切り抜けるショーンさま。
そしてまた、心ならずも女性と愛を交わしてしまうチェリー・アドソの迷いと懊悩も。
おそらく、原作には、キリスト教における性と女性の位置づけも詳しく描かれているのだと思いますが、私は未読なので今はコメントできず。
でも、いつか機会があれば、ぜひ読んでみたいと思っています。
DVDと原作の紹介
おじさま大好きの私はいつか買いたい一枚。
ブルーレイは画像もいっそう綺麗なようなので、これは買う価値がありそう。
出演者 ショーン・コネリー (出演), クリスチャン・スレイター (出演), マイケル・ロンズデイル (出演), ロン・パールマン (出演), F・マリー・エイブラハム (出演), バレンティナ・バルガス (出演), レオポルド・トリエステ (出演), ヴェルノン・ドプチェフ (出演), アンドリュー・バーキン (出演), ピーター・バーリンク (出演), キム・ロッシ・スチュアート (出演), フランチェスコ・マゼッリ (出演), アレクサンドル・ムヌーシュキン (出演), ジャン=ジャック・アノー (監督), ベルント・アイヒンガー (プロデュース)
監督
定価 ¥5,503
中古 18点 & 新品 から
こちらが原作。上下巻あります。
こういう作品を読むなら、キリスト教は絶対的に勉強しないとイケマセン。
ハリウッド映画でも、洋楽でも、とにかくキリスト教の世界観をテーマにした作品が多いので、今までなんとな~く流してた方も、一度じっくりキリスト教関連の本に目を通してみるといいですよ♪