人間、必ずしも幸せになる必要はないけれど、何が自分にとって幸せか、真剣に考えることは決して無駄ではない。
なぜなら、「自分が本当に欲しているもの」「自分に本当に必要なもの」が見えてくるからだ。
「自分のことは、自分自身が一番よくわかっている。私は望み通りに生きている」と思っていても、傍から見れば、的外れな方向に走っていることもある。
本当は負けを認めるのが怖いのに、相手を落とすことに必死になっているとか。
本当は愛し愛されたいのに、「男は必要ない」とか「結婚は自由を奪う」とか、もっともらしい理屈を付けて、自分にも周りにも言い聞かせているとか。
そのまま押せ押せで人生を終わっても損はないかもしれないが、自分の本音から目を反らし、自分も周りも欺く生き方は、どこかで無理が生じる。
生きるのが辛いとか。
頑張ってるのに苦しいとか。
何を得ても空しいとか。
『何を得ても満たされない嫉妬と競争心 人間としての誇りはどこへ? 』にも書いているように、本当に欲しいものから目を背けて、誤った方向に突き進むと、後に残るのは悔いだけだ。
「人生を無駄にする」ということは、負けて、劣って、終わることではない。
本当の自分を理解しないまま、言い訳にうもれて、「自分のものではないような」人生を生きてしまうことだ。
たとえ人の羨むような成功を手に出来なかったとしても、自分が本当に欲するものに向かって真っ直ぐに生きられた人は幸せである。
初稿 2011年2月20日
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とはいえ、オリアナみたいな人間も憎むことはできないのだ。
一番書いていて楽しいのは、オリアナだし。
彼女は「その他大勢」の代表。
踏みつけられた人間の悔しさは、虐げられた者にしか分からない。
彼女には彼女の理屈があり、それに正直に生きているところが、非常に魅力的に感じる。
実際に存在すれば、イヤな女なんだろうけどね。
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写真はオランダの伝統的な家屋で見かける庇。
窓の外側に取り付けられていて、日差しが強くなると、パーラーみたいに外側に下ろして、光を遮る。
色柄も家屋によってまちまちで、雨に打たれ、日に焼けて、ちょっと色褪せたところに味わいがある。
彼女もこういう町中に生まれ育って、のんびり暮らしていたら、あんなひねくれた人間にはならなかっただろうに。
周りに居た人間も悪かった。
だから、心から責められない。