人は「時を見る」ことなどできない。見ることができるのは、「時計」なのである。
人は「それ」をどのように認識するのだろう?
たとえば、「愛」なら、ダイヤモンドやケリーバッグで感じるかもしれないし。
情熱的な恋文でそれを実感する人もあるかもしれない。
「名誉」なら、周囲の賞賛と媚びへつらい。
「友情」なら、入院中に見舞ってくれる友達。
それが誤解であれ、期待外れであれ、私達は、物質、肩書き、行為、言葉といった、形あるものを通して、形なき概念を「事実」として認識する。
いわば、認識とは99パーセントの真実と1パーセントの想像力であり、その1パーセントの受け止め方によって、単なる古時計も、『思い出の時計』になったり、『無価値なガラクタ』になったりするわけだ。
彼氏がプレゼントしてくれた時計を、「こんな安物、愛が足りないわ!」と怒り出す人もあるだろう。
この世に『同じ認識』は二つと無く、一本の薔薇も、見る人によって美しさは異なる。
薔薇、それ自体が美しいか否かより、受け取り側の感性によるところも大きい。
言い換えれば、事象は事象であって、それ自体は何の意味もなさない。
受け手の想像力によって、はじめて意味のある何かになる。
認識とは、知恵の入り口であり、理解の第一歩だ。
私たちが、私たち自身によって、唯一コントロールできるのは、薔薇の香りではなく、己の認識である。