ゴシック ファンタジー

人は「時を見る」ことなどできない 

ゴシック ファンタジー

人は「時を見る」ことなどできない。見ることができるのは、「時計」なのである。

寺山修司の仮面画報

人は「それ」をどのように認識するのだろう?

たとえば、「愛」なら、ダイヤモンドやケリーバッグで感じるかもしれないし。

情熱的な恋文でそれを実感する人もあるかもしれない。

「名誉」なら、周囲の賞賛と媚びへつらい。

「友情」なら、入院中に見舞ってくれる友達。

それが誤解であれ、期待外れであれ、私達は、物質、肩書き、行為、言葉といった、形あるものを通して、形なき概念を「事実」として認識する。

いわば、認識とは99パーセントの真実と1パーセントの想像力であり、その1パーセントの受け止め方によって、単なる古時計も、『思い出の時計』になったり、『無価値なガラクタ』になったりするわけだ。

彼氏がプレゼントしてくれた時計を、「こんな安物、愛が足りないわ!」と怒り出す人もあるだろう。

この世に『同じ認識』は二つと無く、一本の薔薇も、見る人によって美しさは異なる。

薔薇、それ自体が美しいか否かより、受け取り側の感性によるところも大きい。

言い換えれば、事象は事象であって、それ自体は何の意味もなさない。

受け手の想像力によって、はじめて意味のある何かになる。

認識とは、知恵の入り口であり、理解の第一歩だ。

私たちが、私たち自身によって、唯一コントロールできるのは、薔薇の香りではなく、己の認識である。

[amazonjs asin=”4101430217″ locale=”JP” title=”両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)”]

Tags: ,

寺山修司の関連記事

高齢者

一人息子に捨てられた身寄りのない老人が、その孤独さからのがれるために、無差別に話相手を探さねばならない、というのは悲しいことである。しかも、何の共通性も持たない相手に向かって話しかけるためには、サービスとして何か話題を提供せねばならぬ、と知った老人の積極性というやつには、もっと悲しい何かがあろう。

アインシュタイン Notes

それは、たとえば進歩的文化人を連想させることができる。「まわっているが前進しない」からである。ふつう、私たちは輪が回転するとき、その分だけ距離を獲得し、前進すると思っているのだが、風車はまわってもまわっても前進せず、他からの攻撃に対してはかたくなに身を守ろうとする。

人生処方詩集 寺山修司

こんな詩を読んで慰むことができるような悩みなど、本当は病気というほどのものではあるまい。大体、生きることに自信を失いかけている者に「世界は円い。それにくらべるとおれたちはスラリとしている」という薬剤の処方をするドクトル・ケストナーはひどい食わせ物なのではないだろうか?