『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』 より
(7) 出世好きの神学生
僧院の若い見習いには、アリョーシャの他にもう一人、ラキーチンという名の神学生がいる。
ラキーチンは、アリョーシャと違って、世俗にも通じ、野心的な人物だ。
江川卓の『謎ときカラマーゾフの兄弟』にこんな一文がある。
「ぼくはきみだけには驚いているよ、アリョーシャ、どうしてきみはそんなに純真なんだ? きみだってカラマーゾフなのにさ! きみの一家では好色が炎症を起こさんばかりになっているというのにさ」
「やっぱりきみもカラマーゾフなんだな、完璧なカラマーゾフなんだな――してみると、種の淘汰にも意味があるわけだ。父親からは好色を。
「きみの身内にさえ好色漢の血が流れているとしたら、きみと同腹のイワンはどうなんだ? 彼だってやはりカラマーゾフだよ。きみたちカラマーゾフ一族の問題は、ほかでもない、揃いも揃って、好色漢で、業つくばりで、聖痴愚だ、という点にあるのさ!」
ラキーチンという人物はほんの副人物に相違ない。
しかし彼は、ことカラマーゾフ家の内情に関してはたいへんな事情通で、しかもジャーナリスチックなセンスももっている。ラキーチンは本来「オシーニン」と命名されるべきだった。というソ連の研究家ヴェトロフスカヤの証言もある。
ラキーチンの姓のもとになった「ラキータ」は「やなぎ」の意味だが、オシーニンの語源である「オシーナ」は「やまならし」の意である。
ところでやまならしは、その昔ユダが首を吊った木として知られ、この木では風もないのに葉がそよぐ、と伝えられている。
もしドストエフスキーがこの「出世好きの神学生」をオシーニンと命名していたら、彼は長編で「ユダ」の役割を演ずることになるだろうことが、だれの目にも歴然としたはずである。
しかしドストエフスキーはそこまで底を割ることを望まなかった。
そこで彼は、同じ「やなぎ」科に属する「ラキータ」から姓をつくることを考えたのだ、というのである。
事実、ラキーチンは、「一本のねぎ」の章で語られるように、アリョーシャをグルーシェンカのもとへ連れて行き、「友を売った」代償は二十五リーブルの金を受け取る、そうしておいて、わざわざアリョーシャに念を押す。
「なるほど、さっきの二十五ルーブリの件でぼくを軽蔑しているんだな? 真の友を売ったというわけだ。だがね、きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね」
ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を二部構成とし、後半では、成人したアリョーシャが、国父である皇帝暗殺を目論見、身近な人間の裏切りによって、最後は銃殺刑に処されるというシナリオを考えていた――というのは有名な話だ。(それを裏づける確かな証拠はないが)
そして、その裏切り者とは、イリューシャの葬儀に集まった『十二人の少年たち』』の中の、カルタショフ君ではないかと、江川氏は推測している。
加えて、私はこう思うのだ。
裏切りの糸を引くのは、ラキーチンではないかと。
私にはラキーチンが心底アリョーシャを慕っているとは思えないし、むしろ、その高潔な精神と人柄に加え、「大地主の息子」という立場に嫉妬し、心の底では破滅を願っているように感じる。そうでなければ、アリョーシャを騙して、グルーシェンカの所に連れて行ったりしないし、言葉の端々にも、どこか攻撃的で、意地の悪さを感じるからだ。
アリョーシャはさながら春の空に輝く太陽で、闇に住む者には眩しい。
その明るさが、訳もなく嫉妬を掻き立て、眩い太陽に弓を引くような真似を誘うのである。
ドミートリィと父親の一件の後、アリョーシャは彼を待ち伏せていたラキーチンと次のような会話を交わす。
「犯罪って、どんな?」
ラキーチンは何か言いたいことがあって、うずうずしているらしかった。
「きみの一家に起るのさ、その犯罪はね、きみの二人の兄貴と、きみの金持の親父さんの間にね。だからゾシマ長老は万一を考えて、おでこをこつんとやったんだよ(ゾシマ長老がドミートリィの前で叩頭したこと) <中略>」
「犯罪って何さ? 人殺しって、だれが? きみはどうしたんだ?」
アリョーシャはその場に釘づけになったように立ちどまった。ラキーチンも足をとめた。
<中略>
「もしきょう、きみの兄貴のドミートリィさんがどういう人間か、それこそ一発で、ずばり正体を見抜けなかったからね。何かのちょっとしたきっかけから、たちまちあの人の全貌がつかめてしまったんだよ。
ああいう生一本な、そのくせ情欲のはげしい人間には、そこだけは越えてはいけない一線があるんだ。さもないと――さもないと、親父さんをナイフでぐさりとやりかねないのさ。どうにも抑えのきかない道楽者だ。何事につけても節度ということを知らない。二人が二人とも抑えがきかないとなりゃ、いっしょに溝のなかへどぶんさ……」
アリョーシャは「そこまで行くわけがない」と否定するが、父子問題の根底に痴情のもつれがあることを見抜いているラキーチンは、金銭とグルーシェンカをめぐる争いが、いずれ流血沙汰になることを予見し、この諍いを軽く見積もっているアリョーシャに、次のような台詞を投げつける。
ぼくは、きみだけには驚いているよ、アリョーシャ、どうしてきみはそんなに純真なんだ? きみだってカラマーゾフの一人なのにさ! きみの一家では好色が炎症を起こさんばかりになっているというのにさ! ところでこの三人の好色漢がいまやたがいに相手の出方をうかがっているんだ――長靴の胴にナイフをかくし持ってね。
で、三人が角突き合わせたわけだが(フョードル、ドミートリィ、イワン)、きみも、ひょっとして、第四の好色漢かもしれないな」
<中略>
「それはぼくにもわかるよ」 ふいにアリョーシャがつぶやいた。
「ほほう? ぼくにもわかるよなんて、さらりと言ってのけたところを見ると、ほんとうにわかっているんだな」 ラキーチンがしたり顔で言った。 <中略> きみはおとなしい坊やで、聖人のような人間さ、確かにそのとおりだけれど、おとなしい坊やのくせをして、内心、何を考えているかわかったもんじゃない、どこまで心得ているのかわかったもんじゃない! 童貞かと思えば、もうそんな深刻なところまで究めているんだもの、――ぼくはずいぶん前からきみを観察しているんだぜ。やっぱりきみもカラマーゾフなんだな、完璧なカラマーゾフなんだな――してみると、種の淘汰にも意味があるわけだ。父親からは好色を、母親からは聖痴愚の血を受けついだわけか」
カラマーゾフ一族の『好色』について、江川先生も、えらく熱を入れて解説しておられる。
「それに何よりあなたはぼくより純真です。ぼくはもういろんなことに、いろんなことに触れすぎているんです……ああ、あなたは知らないでしょうけれど、ぼくだってカラマーゾフですからね!」
いったいいつ「いろんなことに触れすぎ」る暇があったのだろうか。
私も知りたい。いったいいつ、いろんなことに触れすぎたのか。
それについて、江川先生は、こう解説しておられる。
「ぼくは兄さんの話で顔を赤らめたんじゃないし、兄さんのしたことを恥じてでもない、ぼくも兄さんとまったく同じだからなんです」
「おまえが? いや、それはすこし言いすぎだよ」
「いえ、言いすぎじゃありません」 アリョーシャは熱っぽく言った。(どうやら、この考えはもうずっと前から彼のうちにあったものらしい)、立っている階段はまるで同じなんです。ぼくはいちばん下の段にいるけど、兄さんは上のほう、十三段目あたりにいるんですよ」
<中略>
いったいいつ「いろんなことに触れすぎ」る暇があったのだろうか。
これはアリョーシャについて、明らかにひとつの鍵となっている。強いて考えれば「数えの二十歳で、まぎれもない不潔な淫蕩の巣窟と化していた父の家に帰ってきて」から、そこで見聞きした破廉恥な光景が原因になっているのではないだろうか。「童貞で純真無垢な彼は、見るに耐えないようなことがあると、ただ黙って席をはずすだけで、だれに対しても軽蔑や非難の色はこればかりも見せることがなかった」という。しかし、さすがのアリョーシャも、「不潔な淫蕩」の現場を見せつけられては、それなりの衝撃を受けずにいなかったろうし、思わずも「カラマーゾフ」の一員であることを自覚させられたのではないだろうか。
彼がラキーチンに誘われて、グルーシェンカのもとを訪れたときのことは、とりわけ注目に値いする。グルーシェンカは「猫が甘えるように」、笑いながら彼の膝の上にひょいと飛び乗ると、いかに童貞で志操堅固であっても、いや、それだからこそかえって、何かのなまなましい感覚が彼のうちに生じないではいないはずのところである。
<中略>
「いままでだれよりも恐れていたこの女、いま彼の膝に乗って彼を抱きしめているこの女が、突然まったく別の感情、思いもかけなかった特別の感情を彼の心に呼びさましたのだった。それは彼女に対するいわば異常ともいえるほどの、この上もなく大きい、純真そのものの好奇心であったが、そういった一切が、いまはなんの恐れも、以前のような恐怖の片鱗をさえ感じさせないのである――これが思わずも彼を驚かせた最大の原因であった」
「この上もなく大きい、純真そのものの好奇心」などというものが、ありうるものか、ありえないものか。これについては、ドストエフスキーを信頼するしかあるまい。しかし慎重そのものの言葉づかいではあるが、やはりここではアリョーシャのある意味での「女性開眼」が語られている語られているように思われる。この「女性開眼」は、それから二、三ヶ月の事件を叙述した「第一の長編」ではなんの結果ももたらさないかもしれないが、十三年後に予定されている「第二の長編」では、おそらく中心的な主題の一つを構成することになると思われる。「第二の長編」についてのとぼしい資料の中に、アリョーシャがリーザと結婚し、つづいてグルーシェンカに誘惑されることを示唆したものがあるのは偶然ではない。やはりアリョーシャも「好色なひとたち」の仲間入りをするしかないのである。
『謎とき カラマーゾフの兄弟』 「Ⅲ 好色な人たち」より
「純真そのものの好奇心」などというものが、ありうるものか、ありえないものか・・・江川っち、こういう表現が好き ❤ 「文学的気品」とは、こういう事を言うのでしょう、多分。
ともあれ、アリョーシャが内に熱いものを秘めた人物であることに変わりなく、それが幻の後編=皇帝暗殺への序章になることを思うと、これほどドラマティックな描写もない。
何故って、天使のようなアリョーシャが、何をきっかけに死天使への道に向かうのか、19世紀の読者でなくても知りたいと思うからだ。
まさか結婚生活に敗れた自暴自棄でもあるまいし、「何か」があるとしたら、父の因縁、兄たちの不幸、それら全ての始末をつけに断頭台に向かう、極めて個人的な理由と、社会正義ゆえだろう。
もし、あなたが大義の為に殺人を犯すとすれば、何を根拠にするだろうか。
一番都合がいいのは、個人的理由を大衆に重ね見て、自ら大衆の代弁者となることだろう。
人間の行為に、無私も、奉仕もなく、全ては個人的な理由に基づくことを思えば、アリョーシャだって根っからの善人ではなく、前半、青年期に経験した心の痛みが、後半、メサイヤ・コンプレックスと結びついて、皇帝暗殺という大それた行為に突き進むことも容易に想像がつく。
そして、ドストエフスキーが『好色』にこだわるのも、『英雄、色を好む』とほぼ同義語で、色情のパワーと生きる意欲は同じ源から発しているのだ。
もし、アリョーシャが根っからの童貞で、色恋にも何の関心もない青年なら、ここまで世のため人のために必死にならないし、それこそ僧院の奥深くで瞑想しながら、静かに人生を終えたはず。
そうではなく、俗世に戻って、愛し、闘い、悩み、挑む、ということは、ゾシマ長老にさえ抑えられない情念の濃い人間だからである。
「行って来なさい、さあ、行って来なさい、わしにはポルフィーリイがおれば十分じゃから、おまえは急ぐがよい。おまえはあちらで必要な人じゃ。僧院長のところへ行って、食事の給仕をするがよい」
「ここに殘るようおっしゃってくださいませ」
アリョーシャは懇願するような口調で言った。
「いや、おまえはあちらでこそ必要なのじゃ。あちらには平和がないのでのう。給仕をしておれば、役に立つこともあるじゃろう。騒ぎが起ったら、お祈りをするがよい。それからな、せがれや(長老は好んで彼をこう呼んでいた)、言っておくが、今後ともここはおまえのおるべき場所ではないぞ。このことはよく覚えておくことじゃ、よいかな、神さまがわしをお召しになったら、お前は即刻この僧院を出て行くのじゃすっかりここを引きはらってな」
アリョーシャはぴくりとふるえた。
「どうしたのじゃ? ここはしばらくおまえのいるべき場所ではない。おまえを俗界での大きな修行に出すにあたって、祝福をしてやろう。おまえはまだまだ放浪すべき運命なのじゃ。それに妻ももたねばならぬ。もたねばならぬのじゃ。ふたたびここで来るまでに、いっさいを耐え忍ばねばならぬし、なすべきこともたくさん出てくるじゃろう。
だが、わしはおまえを信じて疑わぬ。だからこそおまえを送り出すのじゃ。おまえはキリストがついておられる。心してキリストを守るなら、キリストもおまえを守ってくださるだろう。大きな不幸を目にするであろうが、その不幸のなかでしあわせであるじゃろう。わしの遺言はな、よいか、不幸のうちにしあわせを求めよじゃ。
働くがよい。たゆみなく働くがよい。
いまからもうこのわしの言葉を覚えておきなさい。
おまえとはまだ話し合う折もあろうが、わしの命数はもう日数というより時間で数えられるほどに尽きてしまっておるのでな」 (97P)
ゾシマ長老も彼が情念の濃い人間であり、僧院の片隅に黙って収まっているような人物でないことを見抜いていたのだろう。
可愛い子猫に見えて、その実、中身は小さな虎、いずれ化けて、虎の人生を歩むようになるだろうと。
そしてまた、カラマーゾフ一族の不幸を救えるのは、アリョーシャのように、真に高潔で、心優しく、嘘や世論に惑わされない人間の他になく、それは聖職者として生きるのと同じくらい尊いことだと。
だが、若いアリョーシャにそんな理屈が分かるはずもなく、突然、「自立」を言い渡されたアリョーシャは、不安と悲しみでいっぱいで、「庵室と僧院をへだてる生やしの道を小走りに(98P)」に歩いていく。
そこにひょっこり顔を出したのが、小悪魔のラチーキンだ。
一見、カラマーゾフ一族のことを心配する振りをして、その実、家族を貶め、アリョーシャを動揺させるようなことを平気で口にする(私にはそう見える)
そんなラチーキンに対する、イワンの評価は次の通り。
こうなると、いったいだれがだれに嫉妬しているんだか、わかったもんじゃない!
なんでもこんな意見を表明されたそうな。
もし、ぼくがきわめて近い将来、大僧院長になる夢を捨てて、剃髪をあきらめるとしたら、まちがいなくペテルブルグに行って、どこかの大雑誌社の、しかもかならず批評部門にもぐりこんで、十年ほども書きまくったうえ、最後にはその雑誌を乗っ取ってしまうだろうとさ。
それからまた雑誌の発行をつづけていくが、それはかならず自由主義的、無神論的傾向で、社会主義的ニュアンスを帯びたものになる、というより、ちょっぴり社会主義的なわさびまで利かせたものになるんだそうだ。
ただし、耳だけはぴんとおっ立てて、ということは、実際には敵にも味方にも警戒心を怠らず、馬鹿者どもの目をくらまして行くことになる。
で、ぼくの出世コースの終着点は、きみの兄貴の解釈によると、社会主義のニュアンスはほどほどにして、雑誌の予約金をせっせと自分の当座勘定に蓄(た)めこみ、機会があれば、どこかのユダヤ人の指導を受けて、融資なんかにもまわし、ついにはペテルブルグに大ビルディングを建てて、そこに雑誌の編集部を移し、ほかの階はアパートにして貸し付けるんだと。(105P)
まさに、その通り。
イワンの予言は実現されるのだと思う。
大人になっても、アリョーシャの敵にも味方にもならず、その実、存在だけは利用して、自分の有利になるよう図っていくに違いない。
本人が悪意をもって裏切るかどうかは分からないが、結果的に、アリョーシャを裏切る形で、皇帝暗殺計画を漏洩するのではないか。
ちなみに、ロシア革命をテーマにした、池田理代子センセの『オルフェウスの窓 ・ ロシア編』では、大貴族の息子で、バイオリンの名手でもあるドミートリィが、志の高い青年貴族を組織して、皇帝暗殺計画を立てるが、ドミートリィの恋人に横恋慕した男が、彼女に冷たくあしらわれたことに腹を立て、ドミートリィの音楽上のライバルである演奏家に密告。そこから計画が漏出して、計画に加担した者は全員逮捕、ドミートリィは銃殺刑に処されるという筋書きだった。そして、密告した演奏家は、ドミートリィに成り代わってオーケストラのコンサートマスターに就任し、祝杯をあげるというストーリー。(この演奏家も、最終的には、事の真相を知った若い革命家に刺殺される)
これも、『カラマーゾフの兄弟』にインスパイアされた話だと思う。(弟の名前はアレクセイだし(*^_^*)
そんな風に、ロシア革命を題材にする作り手には、避けて通れない、カラマーゾフの兄弟であり、皇帝暗殺計画なのだ。
多分、アリョーシャ萌えの読者は、幻の後編に登場する、処刑台に向かう死天使の姿を妄想して、悶えるんじゃないか。
また、そうした熱血青年の屍を越えて、肥え太るのがラチーキンのような人間で、彼等にとって、本当のパラダイスは、イエス・キリストのおわす天国ではなく、現世である。
だから、大僧院でも、都心の高層ビルでも、大差はないし、どんな仕事に就こうと、自分の利益しか考えない。
そして、そんな人間が、神の道ではなく、マンモンの世界に招かれるのは、神の目から見れば、当然至極で、これもまた天国の門の淘汰である。
死後、ラキーチンが天国に招かれるか否かは分からないが、少なくとも、イエス・キリストにはこう言われるだろう。
「だって、君は、大事な友人を25ルーブリで売ったじゃないか」
なるほどぼくは坊主の息子で、きみたちのような帰属の前では屑の屑かもしれないさ。
しかし、そうまで気やすく、おもしろ半分なからかい方はしてもらいたくないな。
これがラチーキンの本音であり、正体である。
裏切りの動機は、ルサンチマン。
*
ちなみに、次の章(8) スキャンダルでは、次のような描写がある。
僧院長の食事会のメニューについて・・
これらはすべてラキーチンがこらえ性もなく、かねて渡りのついている僧院長の料理場をわざわざのぞきに行って、かぎ出してきたことだった。彼はどこにでも渡りをつけていて、いたるところに情報源をもっていた。じっと落ち着いていられない性分で、そねみ屋でもあった。
自分がなかなかの才覚をもっていることはちゃんと自覚していたが、うぬぼれからそれを病的に誇張して考えがちだった。
彼は自分がある種の社会的活動家になるだろうことを確実に予感していたが、しかし彼に強い友情をおぼえていたアリョーシャにとって悩みのたねだったのは、親友のラキーチンが、ほんとうは破廉恥な男であるのに、自分にはまったくその自覚がなく、それどころか、テーブルの上に放ってある金を盗んだりしないという自信から、自分を最高度に道徳的な男ときめこんでいることだった。この点は、アリョーシャにかぎらず、だれにもどうしようもないことであった。
出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓