【小説の概要】 正義の相対性
幾多の問題を経て、改めて気持ちを確かめ合ったヴァルターとリズは、到底不可能と思えた海洋情報ネットワークの構築に向けて、また一つ、歩みを進める。
そんな中、順調に稼働する採鉱プラットフォームに再び鉱業局の調査が入る。スタッフはファルコン・マイニング社の差し金と憤るが、調査に訪れたマイルズ調査員は、ヴァルターが思い描く小役人とはかけ離れた賢人であった。
「MIGと採鉱プラットフォームは今後どうなるのか」というヴァルターの問いかけに、マイルズ調査員は、「要は、MIGが正義で、ファルコン・マイニング社は悪だと言いたいのだろう」と、相対する二つの正義について説く。
そして、史上最悪といわれる惑星ネンブロットのヴォラク坑道の実情を引き合いに出し、世界中がニムロディウムを必要とする限り、どれほど過酷な労働が行われても、坑道が閉鎖されることはないと語る。
「罪深いというなら、我々みんなが罪深い。皆が求めるから、ファルコン・マイニング社も存在し続ける。ネンブロットの平原に立てば、みな同じ」と。
マイルスの言葉から、正義の相対性を感じたヴァルターは、一人の市民として訴えかけていくスタンスを身につける。
そんな彼の目に飛び込んできたのは、処女航海のアニバーサリーケーキにデコレーションされた『One Heart, One Ocean』だった。
【リファレンス】 相対する二つの正義と、神の意思から自由な英雄
本作は、一見、オリジナルのSFに見えますが、全体的にはワーグナーのオペラ、とりわけ『ニーベルングの指輪』(四部作)のパロディになっています。
ある意味、壮大な二次創作であり、見る人が見れば、「ああ、あれ」とすぐに元ネタが分かります。
主人公の名前もヴァルターだし(ワグネリアンの父親が願って名付けた)、重要なアイテムも『リング』ですから。
そして、『ニーベルングの指輪』がそうであるように、本作も「世界を救済するのは、神の意思から自由な勇士」という位置付けになっています。
ニーベルング族の醜い小人、アルベリヒは、ラインの黄金を守る三人の乙女に恋をしますが、乙女たちに足蹴にされたのを恨んで、ラインの黄金を奪い取ります。
愛を捨てて、黄金の力を選んだアルベリヒは、世界を統べる指輪を作り、地底の小人たちを支配して、世界中の富を集めさせます(このあたりはロード・オブ・ザ・リングとかぶります)
一方、神々の長ヴォーダンは、巨人族の兄弟ファーゾルトとファーフナーを使って、神々の居城「ヴァルハラ城」を築き上げたものの、その見返りに、女神フライアを差し出すという約束を反故にします。女神フライアは、神々の命の源である「黄金のリンゴ」を守り育てる役目があり、フライアがいなければ、神々も不老不死の力を失ってしまうからでした。
そこで、ヴォーダンは、奸計に優れた火の神ローゲを伴い、地底のニーベルハイムに赴き、油断したアルベリヒからまんまと世界を統べる黄金の指輪を盗み取ります。
怒りに燃えるアルベリヒは、指輪の持ち主に災いが訪れるよう呪いをかけ、
神々の没落を予感した知恵の女神エルダは、ヴォーダンに直ちに指輪を手放すよう諭しますが、指輪の魔力に魅入られたヴォーダンは聞き入れません。
女神フライアの代わりに指輪を受け取ったファーゾルトとファーフナーは、指輪の所有権を巡って諍い、ついにはファーフナーがファーゾルトを殴り殺してしまいます。早くもアルベリヒの呪いが実現したのです。
そうなって初めて、自身の過ちに気付いたヴォーダンは、神々の没落を避けるべく、女神エルダの知恵を借り、人間との間に子供をもうけます。
「神々の意思から自由な勇士」が、大蛇と化したファーフナーから指輪を取り上げ、神々を没落から救うと考えたからです。(ファーフナーが指輪を所有していれば、再びアルベリヒの手に渡り、軍勢を率いて、神々を返り討ちにする恐れがある)
そこでクエスチョン。
なぜ「神々の意思から自由な勇士」が必要なのか。
それは自発的な意思こそが最強であるからです。
たとえ立派な勇士であろうと、「誰かの意思を継ぐ者」は、所詮、その者の傀儡に過ぎません。
現実社会でも、政治家や有名人がどんな高説を述べようと、そこに誰かの企図が見え隠れすれば、たちまちその言葉は説得力を失いますね。
分かりやすく言えば、「ステマ」です。
「○○の権利を守れ!」「○○を廃止せよ!」
言っていることは確かにその通り。
だけども、その言葉の向こうに、それによって利益を得る第三の存在が透けて見えれば、たちまち胡散臭くなるでしょう。
それが傀儡の脆さであり、限界です。
そうではなく、誰の命令も受けず、誰の思想にも感化されていない。
己が考えて、この道を選んだ。
人はそうした自主性、あるいは中立性に、真の正義を感じるのではないでしょうか。
ヴォーダンが神々の意思から自由な勇士を求めたように、ヴァルターの直属の上司であるアル・マクダエルも、「MIG 対 ファルコン・マイニング社の軋轢は、お前には全く関係のないことだ。お前の言葉に私怨を感じれば、誰もお前を信じなくなるぞ」と諭します。
そして、MIGの側でもなく、またファルコン・マイニング社に敵対する者でもない、真に自由で、真に公正な、一人の一市民として、未来のビジョンを社会に指し示すことを求めます。
そんな彼にとって、一大転機となるのが、マイルズ調査官の言葉「ネンブロットの平原に立てば、みな同じ(罪人)」です。
鉱山労働者に過酷な作業を強いる者も、人権侵害の観点からマイニング社を非難する人も、神の視点から見れば、同じ鉱物資源の恩恵に預かっています。
そこに正義も、悪も、あろうはずがなく、ただただ人の哀れがあるだけです。
そうした現実を踏まえれば、一方的にファルコン・マイニング社を糾弾することも、逆にMIGを英雄視することも、賢明とは言えません。何故なら、ネンブロットの平原に立てば、みな同じだからです。
鉱物資源に限らず、環境問題でも、経済活動でも、私たちはすぐ「白か、黒か」の善悪二元論で考えがちですが、対岸には対岸の正義があり、どちらか一方から断罪するものでもありません。
ますます多様化する現代において、善悪二元論は、時に取り返しのつかない悲劇をもたらします。一方的な殺戮がその最たるものでしょう。
それよりも共存共栄。排除や否定ではなく、互いの良いところを活かして、併存する方法はないか探ることが、今後いっそうの課題になると思います。
人は誰でも自分は正義の側だと思いがちですが、いつも対岸には相対する正義が存在します。
それらを調和できるのは、ジークフリートのように、真に自由な意思をもった勇士ではないでしょうか。
※ 作中の「ジークフリートの背中を刺すか?」という台詞は下記のパートに登場します。
https://novella.workscompliance]ニーベルングの指輪は、松本零士やあずみ凉が漫画化していますが、ここは麗しい宮本えりか&池田理代子の絵柄でどうぞ。