セッション

映画『セッション』とゴーストライター事件

セッション

この作品は、見終わった後に、評価がぱっくり二つに分かれる映画だと思います。

「めちゃくちゃ感動した!」と「え、こんなもん?」

残念ながら、私は後者の方でした。感動した皆さん、水を差すようでごめんなさい!!

でも、ネットの情報を見ていたら、映画界とジャズ界を代表する方が作品の出来・不出来をめぐって真っ向からバトルされたようですし、一般人の映画ブログでも、純粋に感動した方と、「もうちょっと、こういう部分を掘り下げて欲しかった」と不満が残った方と、大きく評価が分かれているようなので、私も後者の方だな、と感じた次第です。

内容に関しては、至る所に情報がUPされてますので、WikiやAmazonをご参照下さい。

「音楽的」であること

多分、この映画に物足りなさを感じた方は、偉大なジャズ・ドラマーを目指す主人公アンドリュー・ニーマンの音楽観がどこにも感じられなかった事に不満や違和感を覚えたのではないでしょうか。

音楽観というのは、「どんなジャズをやりたいか」というニーマンの強い拘りです。

たとえば、

「フィッシャー先生は楽譜に忠実であることを求めるけど、音楽って、そういうものじゃないだろう。オレは心の底から湧き上がるような即興の部分を大事にしたい。その場その場で表現の仕方は変わるはずだっ!」

「フィッシャー先生は、バンドメンバーと呼吸を合わすことを主張するけど、ジャズの要はリズム。メンバーがオレに合わすのが筋じゃないか。オレ一人が突出しているからといって、何が問題なんだっ!(←エゴ)」

「フィッシャー先生はグルーブ感に拘るが、それはチャーリー・パーカーの時代の話。21世紀のジャズは、もっと新しい方向に舵を切るべきだ。オレがその先駆者となってみせるっ!」

そういう部分がほとんど無くて、ひたすら「偉大、偉大」と繰り返すだけ。

描きたいテーマも無いのに、「漫画家になりたい」と憧れ、なんとか先生みたいなイラストをひたすら描きまくって、肝心のストーリー作りや、それを構築する為の勉強など一切やらない、自称・漫画家志望みたいなものです。

ニーマンもひたすらドラムを叩きまくるだけ。

そこに音楽的な拘りもなければ、音楽家らしい葛藤もない。

あるいは、それを考える余裕も無くすほど、技術! 技術! を要求され、パワハラまがいの指導の中で我を失っていく……というのが監督の意図なら、それはそれで成功していると思いますけどね。

ただ、やはり「映画音楽」としての感動を求めるなら、一部の人は「音楽的であること」を求めると思うのです。

「音楽的」の中には、演奏家としての苦悩、音楽業界における理想と現実のギャップ、技術的な行き詰まり、周囲の音楽観の違い、などが含まれます。

その辺りが、主人公の激しい魂の叫びとして聞こえてこず、ひたすらスポ根的にドラムを叩きまくって、最後も「音楽観の対決」というよりは、「これでどや!」と主人公が一人で押しまくる展開だったので、見る人によっては肩透かしを食らったような気分になるんじゃないでしょうか。

映画音楽で大成した作品といえば、天才モーツァルトと凡人サリエリの葛藤を描いた『アマデウス』が代表的ですね。あれはプロの音楽家も納得の出来だったように感じます。

音楽的にどうこう、というよりは、「神はなぜ自らの代理人に、あんな下品な若造を選んだのか」という、努力家サリエリの怨念が見事に表現されていました。

サリエリもなまじ才能があるが為に、モーツァルトの天才が理解できてしまう。

こんなバカは無視して潰してやりたいが、音楽家としての良心からそれは出来ない。

だが、自分が手助けすれば、いずれ世間も才能の違いに気付いて、モーツァルトの方が天才として後世に名を残すことになる。

この嫌らしいまでの凡人の嫉妬と、音楽に対する敬虔の狭間で、だんだん卑屈に歪み、音楽の神(=モーツァルト)の復讐者となる過程がつぶさに描かれていました。

それは決して奏法や解釈に重きを置いた作品ではないけれど、「音楽の神に愛されなかった凡人の怨念」は非常によく伝わってきたし、クラシックに興味のない人でも、「ドン・ジョバンニって、そういう背景があったのか」みたいな発見がありました。

成功のポイントは何か、と問われたら、それはやはり「今ひとつ天才に及ばない音楽家」サリエリのキャラクター的魅力なんですね。即ち、平凡な一般市民のあなた方の象徴です。

恐らく、映画『セッション』も、「自分はこんな音楽がやりたい」というニーマンの頑ななまでの理想があって、その強固な拘りが、フィッチャー先生のスパルタ的な指導の中で、揺らぎ、壊れ、自分自身に対しても懐疑的になっていく、そうした演奏家としての葛藤がもっと前面に出ていれば、ジャズ・ミュージシャンも納得の内容になったのではないかと思います。

「偉大」を目指すのは分るけど、じゃあ、偉大になって、どんな演奏がしたいの? という音楽家としての核の部分ですね。

ある意味、『感動の音楽映画』という触れ込みが、変に期待をもたせた・・という背景もあるかもしれません。

「感動」というからには、ジャズ通は「音楽的な感動」を求める。

「音楽的な感動」というのは、主人公の音楽観が報われる、もしくは音楽的に偉大な目覚めがある・・という展開です。

たとえば、こんな感じ。

「そうじゃない、オレはこんな演奏がしたいんだ」とフィッシャー先生の指導に疑問をもつ。

音楽観の違いからついに決裂、そして退学。

やはりオレの演奏が間違いだったのか。自信をなくし、ニコルに慰めを求めるが、既にニコルは愛想を尽かしている。

孤独の中で、音楽を諦めることも考える。

フィッシャー先生との再会。

演奏会に参加するが、フィッシャー先生のだまし討ちに遭う。

一度はステージを降りるが、ここで引いてたまるかと舞台に復帰。フィッシャー先生の指揮は完全無視で、自分の演奏を貫く。

やがて観客が魅了され、拍手がぼちぼちと。

他のミュージシャンも、ニーマンの演奏に圧倒され、フィッシャー先生の指揮ではなく、ニーマンのドラムに合わせるようになる。

フィッシャー先生は居場所を失い、フェードアウト。

舞台におけるニーマンの完全勝利。

シナリオ通り、フィッシャー先生と解り合い、微笑み合うエンディングもいいけれど、それならもっと音楽家としてのニーマンの苦悩が欲しかった……というのが、一部の違和感ではないでしょうか。

それでも、監督は撮影当時28歳、シナリオのテンポもいいし、ドラム演奏の編集などもよく考えられて、上出来だと思います。

音楽教育の「ある一面」にフォーカスし、個々の音楽観はもちろん、生徒の自尊心まで破壊してしまうスパルタ指導法の是非や、ドラミングの素晴らしさなどは、非常によく描けてましたしね。

投げ銭的な意味で星五つ、そこには将来への期待値も含まれます。

これを機に、チャーリー・パーカーやバディ・リッチを聴いてみよう、と思った人も少なくないでしょう。

それだけのインパクトを与えた、という点では、やはりパンチのある作品なのです。

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だからあなたはゴーストライターに騙される

なぜゴーストライター・ネタを持ってきたか・・といえば、この作品に純粋に感動できる人って、佐村河内氏にも騙されるんじゃないかな、と思ったからです。

こんな風に言い切ってしまうと、語弊がありますけども(ホントに申し訳ありません・・)。

いわば「小手先の凄さ」、本作で言えば、派手なドラミングに目を奪われて、それだけで感動してしまう、という点です。

宣伝で大手の配給会社から「十年に一度の感動作」「全米が泣いた」「天才○○、渾身の作」と触れ込みがあれば、それだけで「感動しなければならない」という前提で見てしまうし、有名な映画評論家や多数のブロガーが絶賛すれば、「これに違和感を持つことは許されない」という雰囲気にもなりますよね。

いわば、「この作品を否定する、お前の方がオカシイ」という同調圧力です。

佐村河内氏の一件でも、「相手は聴覚に不自由がある」=「批判してはならない」という前提から始まって、「あの人も、この人もヨイショしてます。日本全国が感動してます」というフォーマットの中で個々の感覚まで支配されてしまう。

でも、交響曲を聴いて、「は?」と違和感を覚えた人も少なくなかったはずですよ。

たとえば、「作曲者は、19世紀的な世界観を踏襲し、現代に新しい解釈をもたらした」という触れ込みなら、納得したと思うんです。

そうではなく、「既存の音楽を打ち破る新しさ=天才」「現代のベートーヴェン」といったキャッチフレーズで売り出していました。

だけど、多少クラシックに素養のある人が聴けば、あのヒットした交響曲には既視感しか覚えない。

マーラーやブルックナーあたりの二番煎じ、と、すぐに気付くと思うんです。

その上で、「現代に蘇るマーラー」みたいな話なら、まだ納得できるけども、「マーラーなんて一般ウケしないよ。クラシックといえば、やっぱベートーヴェンでしょ」みたいな、マーケティングのあざとさや、聴覚やボランティア云々といった属性の部分で盛り立てた、という点で、特にクラシック愛好家はブチブチっときたんじゃないでしょうか。

というか、共作なら共作と、早く言ってくれればいいのに・・の世界ですよね。

でも、メインの作曲家として、新垣先生のような、凡々としたイメージのおじちゃまが登場したら、「なーんだ」と手の平返したように冷遇するわけでしょう。

そういう意味で、「権威あるもののお墨付き」とか「Googleの検索では好意的な意見ばかり」とか「ドラミング、かっけー」とか、見た目の華やかさに目を奪われる危うさは、誰の中にもあると思うんです。

TVのコメンテーターでも、「市立○○商業高校卒。20年、卸業やってました」という人より、「アメリカの○○大学卒業、マッキンゼーなんちゃら」の方が、一言一言を有り難く感じるのと同じです。

そして、映画『セッション』の場合、純粋に映画に感動した方は、批判的な人が「何を不満に感じているか」、理解しにくいかもしれません。

批判的な人が口にする「音楽的な主張がどうたら」「ジャズはこうあるべき」みたいな意見も、意地の悪いこじつけか、鬱陶しいウンチクにしか見えないと思います。

そして、それはその通りかもしれないけれど、一方で「音楽的な訓練を積んできた人間だからこそ分る、物の見方」も存在します。

たとえば、何の素養もない人には、ピアニストのポリーニとリヒテルの違いなんて、全く分らないでしょう。

誰が何を弾いても、ショパンはショパンにしか聞こえないし、ちゃらららららと早いテンポで鍵盤を叩けば「すばらしい超絶技巧だっ!」と無条件に感動する。

そこに権威者のお墨付きや「世界が泣いた」という触れ込みがあれば、ピアニストの技量を疑いもしないと思います。

映画『セッション』も同じで、ドラミングの迫力やラストシーンの和解など、大勢が心揺さぶられるドラマがあるのは疑いようもないけれど、その一方で、プロのジャズミュージシャンが「音楽的に物足りない」といった不満を覚えるのは何故かということも、ちょっと考えてみるといいです。

単純に、派手な演奏や教師と生徒の心の交流の部分だけを見て、「10年に一度の感動音楽大作だ」と決めつけるのは、まだ早いぞ、と。

でないとね。

また第二の佐村河内氏に騙されることになる。

主人公の熱意や和解の部分だけを見て、自身の感動を疑いもせず、一部プロ界隈から上がっている「音楽的な疑問」に対する意見を拒絶してしまったら、第二、第三の佐村河内氏が出てきた時に、インチキみたいな作品に、何万、何十万と、お金を払う羽目になるよ、という意味です。

そういう意味でも、『素養』って、とても大事です。

音楽に限らず、美術、彫刻、建築、華道、服飾、いろんな分野に、いろんなキャッチコピーが溢れてる。

その全てにプロ並みの知識や技術を持つ必要はないけれど、ダ・ヴィンチの絵画とか、ル・コルビジェの建築とか、ココ・シャネルのブラックドレスとか、歴史的な名作とされるものは、どの点において高く評価されているのか、現代においても人を惹きつけてやまないのは何故か。

ボブ・ディランとビリー・ジョエルは、どこが違うのか。(ビリーもいい歌詞を書くんだけどね)

生け花って、どこがどう芸術的なの?

みたいなことを、興味もって調べたり、展覧会に出掛けたり、いろんな世界に触れて、基礎的な知識も仕込むと、物の見方も二倍、三倍に広がっていく。

そうすれば、実際のチャーリー・パーカーの演奏や生き様を引き合いに出して、映画『セッション』に一言言いたくなる人の見方も分ると思います。

もちろん、異議を唱えている人の全てが正しい事を言ってるわけではないし、また「感動した人」の全てが「騙された」という話でもない。

『感動』の対極には、こういう事情通の意見もあるよ、そこにも一つの真実が含まれているよ、という意味です。

どっかの金持ちが、中学生が思いつきで描いた画を「現代絵画の巨匠の代表作」と思い込み(画廊に騙されて)、1億で購入した、というエピソードは、誰もがバカにしますけど、それと似たようなことは、自分の身近でも小規模で起きています。

そういう感動詐欺に騙されないためにも、これだけITが発達して、賛成意見も批評も等しく読める時代なのだから、いろんな物の見方を柔軟に受け入れ、それにプラスして、いろんな素養を仕込めば、もっともっと感じ方、考え方の幅が広がるよ、というお話です☆

【追記】 若さとは何ぞや ~「好きなこと」「やりたいこと」などなくてもいい、と若い人に勧める呑気な人たち

映画『セッション』は、野心的な若者の栄光と挫折を凝縮したような作品だ。

もっとも、ラストの演奏を「栄光」と称するのは飛躍しすぎだろうが、迷いや苦しみを突き抜けて、一つの境地に到達した――という点では、栄光に値すると思う。

ニーマンは、それぐらい野心にあふれ、純粋真っ直ぐな人間だからだ(……ある意味、ここまで純粋真っ直ぐでなければ、才能など育たない)。

歴史に名を残すような、偉大なミュージシャンになりたいと大志を抱く → 

一人で黙々と練習していたところ、偶然、名教授フレッシャーの目に留まる → 

フレッシャーのバンドに迎えられる(ここで一気に有頂天。今までもじもじした青年で、女の子と正面から向かい合う勇気もなかったのに、映画館の売り子のニコルを堂々とデートに誘うあたりは、いかにも自信にあふれた若者らしい。親族の集まりでも、三流校に通う従兄をバカにしたりする) →

ところが、フレッシャーの狙いは別にあり、もっとやり手のドラマーを連れてくる →

フレッシャーの有名バンドで主奏者になれると意気っていたニーマンは一気に奈落 →

フレッシャーに「チャーリー・パーカーは演奏中にジョー・ジョーンズ(著名なドラム奏者)にシンバルを投げられた屈辱をバネにして偉大になった」というエピソードを聞かされ、ニーマンの心に火が入る →

ライバルとの競争に打ち勝ち、主奏者の座を勝ち取るが、交通事故が原因で演奏時間に遅れ、またもフレッシャーに侮辱される →

ニーマンはキレてフレッシャーに掴みかかり、それが原因で、二人とも名門の音楽院を追い出される →

ジャズクラブで偶然の再会。再びフレッシャーに誘われ、ニーマンはフレッシャーの新しいバンドで演奏する決意を固める →

ところが、またも演奏前にフレッシャーに恐喝され、動揺しているところに初出の楽曲演奏を求められ、舞台上で大恥をかく →

さすがにこの屈辱には耐えられず、ニーマンは舞台を降り、舞台袖で父親に「帰ろう」と慰められるが、ここで引き下がっては男が立たぬと舞台に引き返し、フレッシャーに挑むように熱狂的な演奏を繰り広げる……。

この作品で一番印象的なのは、「帰ろう」と促す父親の気遣いを振り切って、恐怖の舞台に再び舞い戻る場面だろう。

あそこで帰っていたら、二度とニーマンはドラム奏者として舞台に立つことはなかっただろうし、フレッシャーとの関係も憎悪で終わっていたかもしれない。

いや、それよりもっと恐ろしいのは、子供時代から一心に練習に打ち込んだ自分自身を恨み、無価値に感じることだ。

努力が報われなかった時のことを気にする人は、それを最も恐れているはずだ。

五年、十年と積み上げたものが、一銭にもならず、人の目にも留まらない虚しさと哀しさ。

しかし、そんなことを恐れていたら、それこそ何も成せないわけで、ニーマンが「努力する必要のない、居心地の我が家」を蹴って、恐怖の舞台に舞い戻ったことは、人生的には正解だ。

それは、その後の演奏が、フィッシャーをはじめ、その場の全員に認められたから言えること……といえばそうかもしれないが、「負け犬は一生負け犬」という言葉があるように、一度、逃げる心地よさを知ったものは、次も逃げるし、その次も逃げる。嫌なこと、辛いことから。ひたすら逃げ続け、安全圏の中でしか努力しない人間になれば、少なくとも、チャーリー・パーカーのような偉大なミュージシャンになれる可能性は皆無だろう。

いや、そこまで偉大なものを目指す気はないのだけども……と言う人もあるかもしれない。

だとしたら、何の為に、「それ」をやっているのか。

何かに打ち込んだら、一度は、最高のものを目指そうとは思わないのだろうか。

たとえ、それが「チャーリー・パーカーのようになる」という大それた目標であっても、最高を目指すのと、目指さないのでは大違いである。

途中で無理と分かったら、徐々に目標のハードルを下げればいいだけの話で、最初から「この程度」と諦めている人は、どんなに頑張っても「その程度」にしかならないし、得られる結果も「その程度」、だから自分もその程度……という気持ちにしかなれないと思う。たとえ一時期にせよ、最高を目指して全力を尽くした経験は、たとえ報われなくても、次の機会で活かされるし、何より、自分で自分を尊敬する気持ちになる。

失敗して恥をかいて負け犬のように逃げるのと、やるだけやって達成できなかったという諦念には雲泥の差があり、諦念は、どんな結果に終わろうと、自分で自分を辱める気持ちには決してならないのだ。

昨今、「好きなことが見つからない」「やりたいことが分からない」という若者に対し、「目標なんてなくていい」「これからゆっくり考えればいい」というようなアドバイスをする人もあるけれど、それもまた呑気な意見とつくづく思う。ニーマンのように、体力的にも、気力でも、何かに死に物狂いに打ち込める時期など、若い時代の、ほんの数年に過ぎないのに。

人間、その気になれば、六十代でも起業できるし、七十代でもエベレストに登頂することはできる。八十代で新人デビューを果たす人もあれば、九十代で学問を修める人もあり、「何かを始めるのに、年齢は関係ない」というのは確かにその通りだ。

だが、何かを成すには――その前準備には――莫大な資本が必要であり、多くの人間にとって、最大の資本は才能でもなく、人脈でもなく、『健康』である。

連続の徹夜にも耐えられる、強靱な肉体。

走っても疲れず、転んでもすぐに立ち上がる。

最新の電子機器もすぐに使いこなせる柔軟性と鋭敏な感覚。

細かい字も難なく読めて、数千ページに及ぶ専門書も一気に読了することができる。

恥をかいても、「初心者だから」で許され、物を知らなくても、「いつか分かるようになるよ」と励まされる(逆に周りから親切丁寧に教えてもらえる)

しくじっても、逆らっても、「若いから」で全てが許され、一晩泣けば気持ちが収まる回復力もある。

年を取ってから、何かしようと意気込んでも、体力がなければ続かないし(下手すれば死んでいる)、作業机に座っていても、腰が痛い、頭が痛い、目が霞んで字が読めない、、、、同じ一時間でも、若者の一時間と年寄りの一時間では、太陽と豆粒ほどの差があるものだ。

それ以外にも、育児だ、介護だ、町内会だと、本業以外で抱え込む事も多い。

失敗すれば、「いい年して」と笑われ、物を知らなければ、「こんな事も知らないの」と失望される。

理想を語れば、「中二病」と嘲られ、逆らえば、社会から居場所をなくす。

傷つき、しくじれば、地獄の底まで転がり落ちるのが中高年というものだ。

誰も声に出して言わないだけで、やりたいことを始めるのに年齢は関係あるし、人生、何度でもやり直しが利くというのも大嘘。

若いうちに始めて、二十代、三十代で、基礎となるものを積み上げないと、その後、どれほど努力しても、それをやってきた人間には勝てないし、四十代、五十代になってから、夢のように夢が叶うことも有り得ない。

メディアで紹介される高齢者ビギナーも、よくよくプロフィールを見れば、「金持ち(若い時分に一所懸命学び、働いていた)」「現役時代は一流企業の部長」「高学歴」「学生時代は○○で優勝」みたいに、既に何かを築き上げた人が、もう一つ、新しい積み木に挑戦しただけの話で、若者の「ゼロからスタート」とは全く意味合いが異なる。大衆の興味を引くために、適当に演出されたシンデレラストーリーを真に受けて、「50代、60代でも、その気になれば何でも出来る」などと呑気に構えていたら大間違い。それまで一冊の専門書も読んだことがなければ、まともに論文を書いたこともない、身体を鍛えたこともなければ、何かを体系的に学んだこともなく、飛び込み営業の経験すらない人が、棚からぼた餅方式で起業に成功したり、新人デビューを果たすなど、砂浜から一粒の砂金を拾い上げるぐらい難しい話で、これはビギナーでも何でもなく、元から100の素質を持っている人が枝葉を伸ばして200にした人生の上級者に過ぎない。(ビギナーという言葉に惑わされてはいけない)

本当の意味で、ゼロから何かを生み出せるのは若者だけ。

志すのも、しくじるのも、若者だけの特権である。

「若さ」という資本は、お金では絶対に買えないし、誰かと交換することもできない。

これほど無敵の資本を手にしながら、若い間、何もしない、しなくていい、という考えは、自分の人生に対する罪だと思わないか?

だからといって、血眼になって「何か」を探す必要はないし、既に何かをもっている人と自分を見比べて落ち込む必要もない。

だから、今は、好きなことや、やりたいことが分からなくても構わない……という意見は理解できる。

だが、その一方で、人生の過酷な現実もしっかり教えることだ。

人間は必ず年を取る。

ニーマンのように、寝食を忘れて何かに打ち込むのも、失敗を恐れずに挑戦するのも、身に過ぎた大志を抱くのも、10代から20代の間だけ。

30代を過ぎれば、波濤のような現実と向かい合わなければならなくなるし、40代になれば身体にガタが出はじめる。徹夜も無理、マラソンも無理。視力も集中力も落ちて、文学全集を読破しようという気力もなくなる。50代になればいっそう体力は落ちるし、下手すれば、ガン、心筋梗塞、脳卒中で死んでいる。60代、70代、80代なんて、若者の活力に比べたら、ただ息をしてるだけ。リュックサックを担いで、いそいそと野山に出掛ける年寄りや、皇居の周りをマラソンしている年寄りなど、ごくごく一握りの、幸運な人々と思った方がいい。これからの時代、年金も貯蓄も減って、生き甲斐どころか、今日の食事もままならない年寄りの方が増えてくるのだから。

今後はいっそう、若い時代の過ごし方が、人生の質を左右するようになると思う。

昭和の時代は、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ~ 気が付きゃ、ベンチでごろ寝~」と鼻歌を歌っていても、家が建ち、車が買えて、新たな事に挑戦できる豊かな老後があったけれども。

何を、どう考えるかは、あなた次第。

そして、その答えは、自分が40代になった時に分かるだろう。

人生の後半に後悔しても、もう二度と、若い時代は戻ってこないのである。

始めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」

上記に対する、一つの回答。

昔、ある一人の貧乏な男がいた。毎日真面目に働いても暮らしが良くならないので貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。

男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。

Wiki『わらしべ長者』より

「初めに触ったもの」は、自分が初めて興味をもったもの、感動したもの、人に褒められたもの、何でも当てはめることができる。

「初めに触ったもの」は、意外と、長続きする。

そして、それは本当に、神のお告げだったりする。

何にせよ、まずは自分で願いをかけ(志をもつ)、神のお告げを信じ、損得抜きで行動する先に幸いがあるということ。

わらしべ長者も、最初に「わらしべ」を手にした時は、本当にこんなものが富に化けるのかと、狐につままれたような心境だったろう。

だが、現実の努力もそういうもの。

スポーツ選手も、IT長者も、ノーベル賞科学者も、みな、一本の、明日も覚束ない「わらしべ」から始めているものです。

追記: 2019/11/24

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これもクラシックに親しみがないと、ちょっと入りにくいかもしれませんが、音楽はBGM的に楽しめばOKだと思います。ヨーロッパのコスプレ物や、舞台芸術に興味のある人にもおすすめ。

そして、ついに、日本語吹き替え版が出ましたね。これ、方々から要望があったのだと思います。名作なのに、ずいぶん長い間、日本語吹き替え版は無視されてきました。
今、吹き替え版リバイバルブームなので、この企画は嬉しい。

レイ・チャールズ、ジャズに興味がなくても、ジェイミー・フォックスの神がかった演技には圧倒されると思います。
女にだらしない部分が作品に昇華する演出もすごいですよ。

愛人のマージが妊娠を告げると、冷酷に「堕ろせ」と命じるレイ。その怒りをHit the Roadの中で歌いあげる場面。

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これが作中で繰り返し語られる「チャーリー・パーカーがシンバルを投げられた」エピソードです。

これも有名なエピソード。中毒でメロメロ状態でスタジオ収録に参加し、『Lover Man』の出だしをミスし、最後はサックスを投げつける。(映画)

それがそのままレコードとして販売され、今も伝説のセッションと語り継がれるものです。
「チャーリー・パーカー ラヴァー・マン セッション」で検索すれば、いろんな情報にヒットしますよ。

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更新情報や引用など
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宇宙文明の根幹を支える稀少金属ニムロディウムをめぐる企業と海洋社会の攻防を舞台に描く人間ドラマ。生きる道を見失った潜水艇パイロットと愛を求めるフォルトゥナの娘の恋を通して仕事・人生・社会について問いかける異色の海洋小説です。
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