寺山修司の戯曲『血は立ったまま眠っている』は、1960年代の安保闘争を題材に、若い二人の青年テロリスト、良と灰男、その姉たちの葛藤や社会不安を描いた戯曲。
「地下鉄の鉄筋にも 一本の電柱にも ながれている血がある。そこでは血は立ったまま眠っている」
という有名な一文をモチーフに創作されました。
解説は、当方の解釈です。
本当は自由なんかちっとも欲しくないくせに
良 | 刺青、と言ってもただの刺青じゃないんだ。「自由」って彫ったんだよ、お姉さん、右腕のつけ根のところに。 |
夏美 | 自由 って? |
良 | そうだよ、自由だよ(シャツをめくって)見てごらん! |
夏美 | 本当は自由なんかちっとも欲しくないくせに |
『自由』という言葉は水戸黄門の印籠だ。自由の名の下には誰も逆らえない。
表現の自由、選択の自由、個人の自由、国家の自由、etc
絶対正義で、永遠の理想。
もちろん、その通りだが、自由が人間を幸せにするかといえば、決してそうではなく、自由の為に道半ばで迷っている人もたくさんいる。
自分の好きなようにできて、なおかつ生活も保証されるような自由など、どこにも無いのだけれど、こと『自由』に関しては、魔法の杖のように語られることが多い。
自由の本質は、孤独で、不安定で、脆いものだ。
口では自由を叫びながら、本質的には、支配され、庇護されたがっている人も多い。
自由を求めながら、その場を離れようとしないのは、自由のリスクを負う勇気がないからだろう。
自由は人間と社会の解放者ではあるけれど、同時に孤独と不安をもたらす死に神でもある。
生き神と死に神と、同時に手なずけながら道を切り開けるものは少ない。
良も、自由に憧れるだけ、本当のところ、自分が何を為すべきか、この世に何が必要かなど考えちゃいない。
自由という言葉がもつ開放的な響きに憧れているだけで、自分の立ち位置や本当の望みさえ分かってないような気がする。
『自由』は他人に認めさせるものではない。
己の中に深く静かに宣言するものである。
「きみは海を見たことってある? ぼくねえ。ことしの夏はじめてみたんだけど海ってのはあれはやっぱり女なのだろうか? 海はフランス語で女性名詞なんだけど。そうそう自由はどっちだと思う。ラ・リベルテ、女だ。女なんだな、自由ってのは……ぼくは自由に恋していたのだ。」
姉さんの年が、そのまま世界の年のような気がする
良 | これを読んでみて下さい。 |
灰男 | わが撃ちし鳥は拾わで 帰るなり もはや飛ばざる ものは妬まぬ ・・・何だ、歌じゃないか。 おれたちは詩や歌なんて用はない(と、投げ出す) |
良 | 何をするんです |
灰男 | きみが、書いたのか。 |
姉さんです。 | |
灰男 | それを何できみがもって歩いてるんだ。 |
良 | 僕とちがって姉さんは勇気があります。それに学問がある。十八なんだけど、ぼくには姉さんの年がそのまま世界の年のような気がするんだ。それにぼくと血がつながっているくせに詩人なんです。 |
良(=17歳。自動車修理工)は、灰男(=23歳。テロリスト)の舎弟みたいなものだ。
「がらすがあったら石をぶつけろ。壁があったらけとばすんだ」という灰男と一緒に、物を盗んだり、壊したり、を試みている。
そのくせ、どこか臆病で、躊躇いもある。
破壊と従順の狭間に立ち、現実を憎むことも、変えることもできない良にとって、夏美は別次元に生きる人。
この世の中において、堂々と詩を書けるのは、『自分の心』というものをしっかり持ち続けられる強さに他ならないから。
他人の首に剃刀をあてられるのは、他人に信用されているから
床屋 | おれが床屋になったのはなぜだと思うね。 |
南小路 | 毎日鏡をおおっぴらに見られるからですね。 |
床屋 | いいや違う大違いだ おれはな、いまの時勢みたいに人が信用できなくなってるときに、他人の首にじゃりじゃりっと剃刀をあてる仕事をしていられるのは、自分が他人に信用されているからだと思ってるのさ。な、そうだろう。誰だって仇の剃刀に自分の喉をあずけっこねえやな。 <中略> おれは近頃ふっと思うんだがな。だんだんとこう時勢がわるくなってくると床屋がふえるんじゃないかと思ったりしてね。町中の男という男がみんな床屋になってしまったらどうだろうね、と。ぞっとすることがあるんだよ。 朝、店のあめん棒がくるくると廻り出す。無論町じゅうの全部の家の前でだ。客は一人もいない。男たちはめいめいに鏡に向かって自分の首を剃りはじめる。自分さえ信用出来なくなった奴は、ひょい、ずばりっ、だ。な、南小路。 信用ってことが何より大事な世の中じゃねえか。 |
床屋でも、歯医者でも、他人に刃物を向けられる時の、あの得もいわれぬ不安と違和感。
相手がその気になれば、こっちの命など一瞬で絶つことができる。
そんな意図はないと分かっていても、相手も人間、いつ何が起こるか分からないし、事故だってあり得る。
それとも、ゴルゴ13みたいに、常に体のどこかに小銃を隠すか?
信用がなければ、診察台にも上がれない……というのは、まったくその通り。
みんな目ざめたら、また一つの歌をうたいはじめるしかない
鉄筋にも
一本の電柱にも
ながれている血がある
そこでは
血は
立ったまま眠っている
窓のない素人下宿の
吐瀉物で洗った小さな洗面器よ
アフリカの夢よ
わびしい心が
汽笛を鳴らすとき
おれはいったい
どの土地を
うたえばいい?
『一本の樹の中にも流れている血がある。そこでは、血は立ったまま眠っている』という有名な一文から発展した同名の戯曲の中で歌われるもの。
この戯曲について、寺山氏は、次のように解説している。
私の中には、その頃から、「政治的な解放は、所詮は部分的な解放にすぎないのだ」という、いらだちがあり、それがこの戯曲をつらぬく一つの政治不信となってあらわれている。
<中略>
(政治に)ストーリーというルビをふって、「たかが政治じゃないか」とうそぶいていた私たちも、ダンの驢馬のように餓死してゆくのを見ながら、私なりの焦りを書きつづけていた。
『血は立ったまま眠っている』という言葉は、いろんな事象に解釈できる。
何も考えてないように見えても、全ての人には心があり、その内側で、いろんなことを感じたり、考えたりしている比喩であったり。
今すぐ行動を起こさなくても、内には熱い血をたぎらせ、虎視眈々と機会を窺っている喩えであったり。
心と体は一心同体、体が在るように心も在るという風にもとれるし、体が休んでいる間も、心は立ったまま考え続けるという風にもとれる。
どんな風に解釈してもいいのが、この戯曲においては、体は眠っても心は眠らない、若さゆえの葛藤や苛立ちの象徴に感じる。
戯曲には、テロリストの灰男、灰男の舎弟で、良心と破壊の狭間で揺れ動いているような良が登場するが、この人たち、一体何がしたいのかといえば、何でもなく、「目的があって、行動する」というよりは、行動そのものを目的としているという感じ。何かしたい、しなければならない、その焦燥の中で、先に破壊行為を行い、その理由を自分たちの都合のいいように後付けしているような印象だ。だから、その行動にまったく共感しないし、崇高とも思わない。彼らにとって革命とは、己の存在を確立する為の手段であって、社会を変革するのが目的ではないのだ。
「政治的な解放は、所詮は部分的な解放にすぎない」というのは、確かに、世の仕組みを変えれば、人間の生き方や価値観も変わるかもしれないが、だが、結局は同じ壁に行き当たり、根本的な解決にはならない……という風に見て取れる。
たとえば、士農工商の時代に比べれば、今は職業選択の自由もあるし、そこまであからさまな区別もない。人はどんな職業を選んでもいいし、どんな職業を選ぼうと、そのことによって差別はされないものだ(建前は)。
だからといって、全ての人が完全な自由を手に入れたかといえば、決してそうではない。自由になったら、自由になったで、「やり甲斐が感じられない」「思うような仕事に就けない」という悩みが生じるし、「あいつより年収が低い」「正当に評価されているとは思えない」といった不満も出てくる。そして、それは、労働環境や経済情勢を改善しても、根本的な解決にはならない。たとえ有名企業に就職できても、個々の「これでいいのか」「こんなはずじゃなかった」という葛藤はどこまでも付いてまわるだろう。
つまり、「政治的な解放は部分的な解放に過ぎない」わけで、人間が生き甲斐を感じたり、人生を変えようとするならば、個々が内なる革命を起こすしかない。価値観を変え、考えを改め、新しいリズムで生活を始めるのだ。
外側から変えようという試みは、それはそれで意義深い。
いつ解雇されるかわからない不安定な中で就労するよりは、ある程度保証された中で、自尊心をもって就労する方がはるかに幸福に感じる。
だが、変えようという試みが、自己実現の一環になっては本末転倒だ。
外側を変えれば、自分も変わったような気がするだけで、いずれ根源的な問題に行き当たるだろう。
若者の中で「血は立ったまま眠っている」というのは、まったく間違いではない。肉体と思考が休んでいる間も、心は常に己を忘れず、虎視眈々と解放や自己実現の機会を狙っている。だが、それが本当の目覚めとなるには、行動の根源となる目的が必要だ。
「おれはいったい どの土地を うたえばいい?」という状態では、単なる彷徨に終わってしまうだろう。
去年の汽車に ことしのおいらが乗るってことはできないだろう
子供 | だけど待ってたって永久に汽車にのれないって知らなかったんだ、ねえ張さん、去年の汽車は、今、すぐそこをでも走ってるよ。 |
張 | ちっとも見えないじゃないか |
子供 | 目がわるいからだ。去年の汽車は、こんな夜でもすごい轟音でおれたちの目の前を走っている。ゴオゴオってすごい音をたててね。……ただいくら走っても走っても去年の汽車にことしのおいらが乗るってことはできないだろう。 |
時は足早に過ぎ去る。
自分は何も変わらないのに、世界の物事は物凄い勢いで傍らを走り去っていく。
過ぎ去ったものに、憧れても、悔やんでも、どうすることもできない。
それを諦念とするか、後悔のままとどめ置くかはその人次第。
ただ一つ、確かなのは、去年の汽車に今年のあなたが乗ることはできない、ということ。
歴史を信じないものは歴史に復讐される
歴史というのは難しい。家族史でさえ、誰が言ったの、言わないので、口論になる。
妻 「あの時、福岡に移住しようと言ったのはアナタじゃないの」
夫 「オレはそんな事は言ってない」
妻 「いいえ、言いました。西区のマンションのパンフレットをもって来て、こういう所に住まないか、と勧めたのはアナタですよ」
夫 「オレは”こういう所がいいな”と言っただけで、引っ越すとまでは言ってない。引っ越しを決めたのはオマエじゃないか」
妻 「そりゃあ、決めたのはアタシですけど、最初に何所にするか相談した時点で、あなたが西区を押したから、そうなのかと思ったんじゃないですか」
夫 「そんなものはオマエの思い込みだ」
妻 「じゃあ、どうして西区がいいな、など言ったんですか」
夫 「いいなと思ったから、いいなと言ったんだ」
妻 「じゃあ、あなたにも責任の一端はあるでしょう」
あとはエンドレス。
まして国家間のイザコザなら、いわずもがな。
誰がやったの、彼がやったの、自国に都合のいいように記録を編纂し、他国より有利に運ぼうとうのは、いずこも同じだろう。
しかし、どのように語り継ごうと、史実というのは厳然と存在するわけで、爆弾が勝手に歩いて爆発するわけでもなければ、鉄砲がひとりでに相手国の将校だけ狙い撃ちするわけでもない。そこには必ず、計画した人間があり、指示した人間があり、実行した人間が存在するわけで、その事実を明白にするのが『歴史』であり、是非を問うのは『解釈』だと思うのだ。
歴史に忠実に……というのは、「爆弾を落としたから、○○国が絶対に悪で、永久に許すまじ」という話ではなく、そこに至るまでの経緯を多角的に分析し、未来に活かすことだ。感情的に断罪するのはジャッジであって、歴史にのぞむ態度ではない。このあたりを履き違えると、真の意味での歴史的考察はストップしてしまうし、どちらかを断罪したところで、双方にとって良き教訓になることはないだろう。
『歴史を信じない者』とは、自分に都合が悪いからと、あったことを無かったことにしたり、誇張したり、削減したり、一方的にストーリーを書き換えてしまうことをいう。それは一時期、物事を有利に運ぶかもしれないが、事実は事実として永久に変わらないのだから、いつかは自分自身が書き換えられ、糾弾されることになる。歴史に裏切られるというのは、そういう意味だ。真実は決して黙ってないのである。
一方、既存の歴史に拘る者は、検証しようとする世の動きの中で孤立する。大多数が見直しを迫る中、何が何でも黒と言い張る者が、どうして共感を得られるだろう。
歴史と向かい合うには、謙虚さと客観性が何よりも大事、という喩え。
『きみたちのその子供っぽい、思いつきの行動』というのは、革命を起こそうと、自衛隊の兵舎の壁に『自由』と書いたり、部品を盗んだりしている良と灰男のこと。
盗んだり、壊したり、叫んだり、揶揄したり。彼らは何かしているような気がするだけで、ちっとも社会の方に向いてない。そんなものは往来のお祭り騒ぎと同じで、何をも変えることはない。では、彼らはどうすべきなのか。真に改革すべきは、兵舎の壁や制度ではなく、人間の意識の方だ。まず内面が変わり、ついで外面に現れる。それは非常に遠回りかもしれないが、確実に物事を変えていく。一部の企業では育休や定時帰宅が推奨されているように。
歴史に影響するには時間がかかる。五年、十年、時に、百年、二百年。
歴史は私たちを失望させることもあるが、正しいものには報いる部分もある。
短絡的な革命家が頓挫するのは、物事を急ぎすぎるあまり、表面だけ壊して、何かを成した気分になるからだろう。
男 | 歴史を信じない者は歴史に復讐される。 ところが歴史だけしか信じない者は孤独になる。 |
灰男 | そんなこと位わかっているよ。 |
いやいや、わかっているとは思えない。言ってみれば君らのしてることは歴史とは無関係なんだ。 ≪中略≫ きみたちのその子供っぽい、思いつきの行動にしてみても個人的な非合理主義の侵略性ということで説明がついてしまう。結局スポーツですよ……それも町の真ん中でアメリカンフットボールをやるようなもんだ。 |
革命家はね、わき目をふっちゃいけないんだ
良 | 実を言うと、あんまり姉さんと灰男さんと仲良くなってほしくないんだ。 |
夏美 | なあんだ、妬いてるの? |
良 | そんあんじゃないさ、ただぼくらが仕事していくには、まわりのものに目をくれていちゃいけないんだ。革命家はね、お姉さん、道端にひなげしの花が咲いてもそれにわき目をふっちゃいけないんだ。 |
夏美 | (喜んで)あたし、ひなげしなのね。 |
良 | 「ひなげしを摘まないで」だ。 |
夏美 | でも、どうして? ひなげしを摘める日のための「お仕事」じゃなかったの? 良たちのは。 |
良 | もの事には順序があるんだ。 |
夏美 | 花よりさきに実のつく草もあるわ。 |
人は、しばしば一つの思想に囚われ、わき目もふらぬことがある。
自由や平和の為に始めた運動が、いつしか「自身の思想を叶える為の手段」になっていく。
上記に喩えれば、『ひなげし』の為に始めた運動が、いつしか己の思想の正当性を証明する事が目的になるような場合だ。
そうなると、『ひなげし』は口実で、運動の是非が重要になる。
それは万人の為に見えて、その実、自分が正しいか否かのアピールに過ぎない。
『ひなげし』の為に始めた運動が正しければ、その恵みはいつか『ひなげし』に還元されるのだろう。
だが、その為に、わき目もふらず、省みもせず、邁進することが、果たして社会全体の益となるのか。
革命家が往々にして失敗するのは、最後には自己の正当性に固執するからではないだろうか。